個人差…纏わる想い出 - 2009.04.30 Thu
先月から今月にかけて、息子夫婦の「出産」という至極当たり前の事を通じてだが、その大きさを改めて感じた。
そして自分の妊娠・出産当時まで思い出してしまった。
どの様な産院・病院で生むのか、又、大部屋か個室か、という選択肢に始まり、妊娠中の妊婦の状態、そして出産がどの様な過程を辿るのか、等々考え出したら枚挙に遑がない。
今を遡ること30年以上…
結婚する際、丁度よい機会、と夫の従兄である産婦人科医の元で「癌検診」を受けた。
癌は何も問題がなかったが、子宮後屈が酷い、という。妊娠しても流れてしまう可能性が大きい、ということだった。
演奏活動やコンクールばかりに追われていた当時の私は、さほど重く受け止めることがなかった。
ところが1980年初めに妊娠が分かった。
ウィーン4区の、妊娠判定をした医師によると、私の子宮は後屈が酷くて癒着寸前であること。つまり普通の子宮は身体の前に向かって軽く曲がっているのだが、私の場合は後ろの大腸や背骨に向かって酷く折れ曲がっている。胎児はそのままの子宮では成長出来ない訳で、軽い後屈であれば妊娠4-5ヶ月頃に子宮が徐々に前に向かって変形して出産まで漕ぎ着けるそうだ。しかしここ迄酷い後屈の場合は子宮が形を整えてくる頃に、外の膜と内側の膜と(と易しい言葉で説明くださった記憶がある)ずれて、内側の膜ごと胎児がするりと出てしまうことがある、と。所謂流産だ。
お腹の張りと出血に常に注意、そして無理をしないこと、等々注意があったと思う。
さて、その様な忠告を受けていたのだが、いとも順調な滑り出し、悪阻(つわり)も「空腹になると起きるので、何か食べれば治まってしまう」というもの。お陰であっと言う間に太った。走っても異常なし。出産後にはリサイタルも組まれていたし、コンクールも受けるつもりでいた程だった。
ところが、丁度第4-5ヶ月目と思しき春、酷いお腹の張りを感じ、病院に出向いた。
夫の友人の紹介ではなかったか、と思うのだが、Semmelweis-Frauenklinikという、産褥熱を発見したことで有名なセンメルヴァイス博士が創設した病院だった。
子宮の収縮止め(日本でもよく使われるブスコパン)の座薬を処方されて帰宅した。安静を続けていたが、収縮は止まらず、厳密には覚えていないのだが出血が始まったのだったと思う。
即入院となった。
特に何も処置はない。収縮止めの座薬を入れて安静にしているだけだった様に思う。
これには理由があり、流産には「妊婦側に原因があるもの」と「胎児側に原因があるもの」とあるそうで、胎児側に原因がある場合には無理に注射で流産を止めたりしない、という主義を通している訳だった。
私の場合、妊娠初期に酷い後屈があった訳だが、これはもう既に軽減している時期、医師には判断が付かなかったのではないだろうか。多少の後屈は残っていたものの。
この、本来なら一番安定している筈の時期に、何度か入退院を繰り返した。
初めての胎動も、この入院中に感じた。
決まって大部屋だった為、しかも広い広い部屋でカーテンの仕切りも無い。初めての入院がこうだったので、入院とはかくあるもの、と思い込んでしまった(だから日本のカーテン付きの病室は余り好きでない)。
色々な患者さん(妊婦さん)と親しくなり、皆それぞれ問題が違って、随分勉強にもなり貴重な体験ともなった。
悪阻が酷く、栄養を全て点滴で受けつつ一日中嘔吐している人、8ヶ月になる女性は子宮口が緩くて縛られてしまったし、妊娠中毒症を抱えた臨月の女性は浮腫が酷く、100kgもありそうに全身がパンパンだった。
一番驚いたのは、高血圧が酷い為翌日に帝王切開を受けることになっていた女性が「破水した!」とナースコールをしたのだが、何と!破水ではなく大出血!すぐに医師が来て胎児の心音を確かめたが、既に聞こえず、彼女は手術室に運ばれた…。間近に見た、後にも先にもない、怖ろしさの余り息を呑む様な経験だった。
結局安静にしているだけの私は、一度超音波で胎児の様子を診て貰うこととなり、AKH(総合病院)に運ばれ、胎児に異常の無いことが判明するや退院させられ、自宅でひたすらベッドに寝て過ごすことになった。本来なら安定している筈の時期、来る日も来る日も寝ているだけ。しかも寝返りを打ってすら出血が起きる。結局2-3ヶ月間をベッドで過ごしたと思う。
ところが何というラッキー、それを知った上の階に住んでおられた開業医(praktischer Arzt)が、毎日通勤前に我が家に寄って、プロゲステロンの注射を打って下さったことだ!毎日!それも、いくら支払ったらよいかを尋ねても、無事に生まれることがお礼である、と。
この注射のお陰で出血は数日で止まり、それからは本当に心地良い日々が始まった。もう夏だった。
お陰で母親学級の様なものにも出席出来、お産の呼吸法(「ラマーズ法」ということを帰国後の二人目の妊娠で知った)を練習するなど、安心して過ごすことが出来た。
ピアノを弾くとお腹がパンパンに張って来るので、そろそろか?と思っても、弾くのを止めて安静にすると治ってしまう。所謂「微弱陣痛」というものらしかった。
早くお産を、と、リストのソナタ、ラフマニノフの3番のコンチェルト、ベートーヴェンのハンマークラヴィアソナタなどなど、体力的に過激なものを弾いても、その時はお腹が張るのだが止めれば治まる、…の繰り返しだった。
出産は、予定日を10日過ぎた頃に「破水疑い」で入院し、しかも胎児が可成り成長しており、過熟児になることを怖れ、まだ陣痛らしきものは無かったのだが、翌朝9時から陣痛誘発剤を使った。
呼吸法の練習が功を奏し、又、演奏家は脱力が上手いそうで(使っている指以外は常に緩めて演奏している訳だから)、特に辛かった事は無かった様に思う。間歇の間はリラックスしていられる分、痛みがずっと続く生理痛(毎月のたうち回っていた!)より遙かに楽に思えた程だった。
最後の最後は身体が「いきみ」を発して自然に押し出してくれる訳で。
付き添っていた夫まで手伝わされ(人手不足!)、「もう頭が見えているよ」と様子を知らせてくれる。
こうして無事、ウィーンの夏時間1980年9月5日19時55分に長男が生まれた。初めての感動だった。
「指も5本ずつある」「目も見えている」すぐに確認した事を昨日の如く覚えている。
身長53cm, 体重3750g, 泣き声も大きな元気な男の子だった。
・・・と長くなってしまったが、入退院を繰り返したことも、私には良い勉強となったし、大部屋で本当に有難かった。
出産後は二人部屋で、子供も昼間は一緒。双方とも夫が来るので合計6人だ。
お乳の与え方(というよりは、授乳前後に乳児の体重を量り、何グラム出ているかを調べる)や沐浴を翌日から習い、普通に生活。その方が子宮の回復(元の大きさに戻る)が速い、と。
秤の前にゾロゾロ並んでいる時は皆、他の赤ちゃんと我が子を比較。我が家は「皆お鼻が高いなぁ…」だった。そりゃぁそうだ、日本人(アジア人)はうちの息子一人だ。(さほど劣ってはいない、とオヤバカだったが)
文脈が逸れたままになってしまったけれど、お産も十人十色(百人百色?)と思った経験だった。
その後、私の友人たちはもっと大変な思いをし、「母親を助けますか?子供を助けますか?」と判断を迫られた家族あり、妊娠中も普通にスキーに出掛けた人あり、タクシーも患者運搬車も来ずに、破水して一人で歩いて病院に行き、30分で生まれた人あり・・・
長くなったので、二人目の時の事は又別な機会に書きましょう・・・
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