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2010-08

予定滞り… - 2010.08.30 Mon

なかなか自分のペースでは過ごせないものです。


早朝一番、若い者からの学校のことで相談電話。
とても電話で済む内容でもなく、後で来ることに。


朝から花の世話の合間に、少し原稿が進んだだけ。
義父の部屋や玄関に14ほどあった供花、主にアレンジメント、可成り萎れてきたものもあり、一本一本を水切りをしながら8つにまとめた。それでも可成り豪華に白く輝いている。ふぅっ・・・

それだけのことですっかり疲れてしまったが、「お手伝いさん」が居る訳でなし、「やっておいてください」とは行かない庶民である我が家が何となく嬉しい日だった。

しかし・・将来私がこうなった時、誰か花の世話をしてくれる家族は居るのだろうか・・・と、ふと思った日。




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10年前の記録ノートから - 2010.08.29 Sun

10年前の通院でのメモ帳が出てきた。
その中に、義父(田中春弥)の受診に付き添った折のメモもあったので、ここに書き写しておく(メモ帳はおそらく紛失するだろうから)。

偶々運ばれたのが私のお世話になっている病院だったのか、それともタクシーを呼んだのか、その辺りの記憶は定かでない。ともあれ当時、週2-3回通院していた私が付き添うのは、全く苦労ではなかった。

以下は医師の話を聞いては走り書きのメモからなので、判読不能の箇所もあるのだが・・
確か、日展の審査か何かで歩けなくなり、お弟子さんに付き添われてタクシーで帰宅したことがあった。その日からのメモだと思う。
_______________________

2000年11月3日 救急救命センター

義父の近日中の予定を述べる
11月4日 日展出品者懇親会
11月5日 慈彩会の音楽会 皇太子妃ご来席
11月7日 書の会 京王プラザ
      墨絵のオープニングパーティ
11月13~15日 大阪一水会の陳列とオープニング 新幹線で移動

(つまりは、これだけの予定をこなさねばならないので、何とかして下さい、と出向いたのだと思う)

胸部外科医師の説明;
除脈により血液が全身はもとより、脳に行かない小失神発作を起こしていたのだろう。
脈拍数は35で、これでは脳にも内臓にも行く血量が足りない。原因は心臓の電気の通り道が遮断されていること。
解決方法はペースメーカーを入れること。よく言われる携帯電話も、自分がかけるのでなければ問題ない。

病名は「房室ブロック」
ペースメーカーを絶対に入れなくてはならない部類の病気。
それについて簡単な説明がなされた。
手術は至って簡単で(=患者への負荷は少なく)、1時間位のもの。局所に薄い長さは5センチほどの電池を入れるのみ。入院は1週間。寝たまま2日間を過ごし、注意事項は一週間は手を動かさない、という位。

心臓というのは血液を溜め込んでは送りだそうとする筈が、心肥大で壁が伸びており、縮まない。
脈を速くする薬を12月まで服用し、外来でこまめにチェックすること。(変更は随時)
薬を服用して2-3日様子を見る。楽になるかどうかのチェック。飲み忘れた時には、そのままとし、まとめて飲まないこと。

11月6日午後に外来にて変化を診る。それ迄毎日3回きちんと服薬すること。
但し、辛い時は我慢せずに受診すること。

(夕方、私がお世話になっている皮膚科の教授から心臓外科の教授に紹介状)


2000年11月6日 心臓外科外来

服薬にも拘わらず房室ブロックは続いている。(脈拍数は44/min.)
脈拍が遅くても何ともなければよい。辛うじて55%の血液が肺に運ばれている状態。
ペースメーカーを入れる判断は、12月迄なら大丈夫だが、この状態で12月迄(生命が)大丈夫という保証もない。

ということで、12月4日に入院し、5日に手術を受けることとなった。

11月27日に外来で最終チェックを行う。糖尿もあるので、血液検査も含め。
アロテックという交感神経を刺激し、心臓を強くする薬をそれ迄使う。或いは一時的なペースメーカーという手段もある(この辺り、文字が乱雑過ぎて不鮮明)。


メモ帳に心臓を中心とする循環器の簡単な図と共に、説明がメモってある。(右心房・右心室・左心房・左心室・洞結節・肺動脈・大動脈等々)
脈を整える酸素を運ぶ。酸素が必要な時には脈が速くなり、洞結節が整える。その洞結節の役割をペースメーカーが代行する。電気刺激で薄い心房を交互に動く電気の通り道、心房が縮んで心室へ…洞結節で連動を調節する。
「房室ブロック」という病名は、心房から心室の電気の通り道が駄目になっており、P波が沢山ある。洞結節から「速く動け」と信号を送っても心室の波が付いて行けない。心房は溜めるだけで、送り出すのは心室。つまり心房→心室の流れがうまく行くように、つまり止まらないようにする。しかし30~40の脈拍では不可能。身体が動かないしふわっとしてしまう。酸素も脳まで届かない。
速く動け、と沢山の量を送り出そうとするので、心肥大が増悪。縮む力が弱くなり心不全を起こす。これが長く続けば破綻を来たし、肺は鬱血状態。

ペースメーカーを入れること。
心臓を切るわけに行かないから、診断は付かないが、原因は年齢、糖尿等々から来ているだろう。
血管を通じて電極を入れ、心電図が出るかどうか。何秒持つかで数をコントロールし、心臓は又縮小して行く。
(この辺りも余りの走り書き ーそれも手のひらにメモ帳を乗せてー で、自分の書いた文字が読めない部分あり。)
三分の二が電池、三分の一がコンピュータ。電極、心臓の内側を監視する。
電池の寿命があるので、これ以上小さくならないが(可成り小さかった。消しゴムを楕円形にしたような…)、7年は持つ。自力でも心臓が動けば10年持つ。
途中で電池を替える場合も、線はそのままで電池のみ替えるので心配ない。


手術の説明
左の鎖骨下に針を刺す。血管を通じて心臓まで通す。刺激の感じ易い部分にくっつける。
鎖骨の下の、大胸筋と脂肪の間を5センチほど切ってペースメーカーを埋め込む。
手術の正味は30分。その他、準備とチェックを入れて計2時間。

手術の影響
・突く刺激で不整脈が起きることもある。
・繊維状の心臓の壁を弱い力で動かす。良い場所を探してねじ込む。(5ミリ~1センチの壁が伸びきっていると突き抜ける可能性もあり、それは千人中一人の確率)。血液が漏れて心臓が動けなくなった場合は、穴を開けて血液を抜き、縫う。穴を縫うことはない。血液を抜いたことはあるが、いずれも健在で命を落としたことはない。

術後
手を動かすと抜ける可能性があるので、左手を固定して留めて安静。寝たきりではない。
二日間はベッドの上で過ごし、三日目から歩く。
その後は普通の生活に戻す。
チタンなので拒絶反応は起こさないが、傷から菌が入ることはあるので、繁殖すれば化膿する。退院後にそのようなことが起きた場合には、反対側から入れ直さなくてはならないので(発生は1%未満だが)、一週間はゆっくり抗生物質の点滴をする。
傷が完治することも計算に入れて、9日間の入院とする。

レンジも炊飯器も大丈夫。

ペースメーカーが故障することを考え、「第一級身体障害者」としての書類を、手術前に提出し、退院後に受け取る。


退院後
・手術後2ヶ月経てば、水泳でもゴルフでも何でも出来る(義父はしないが)。
・よく言われる携帯電話は、ペースメーカーの上に乗せて実験済み。メーカーが構造を替えているので心配なし。(つまり満員電車で隣りに立っていても大丈夫。)
・低超波マッサージ器だけは駄目。心臓が動いているもの、と錯覚し、ペースメーカーは止まってしまう。
・体脂肪計は電気抵抗なので大丈夫。
・病院では、電気メスとMRIは禁止。必ず告げること。
・ペースメーカー手帳は常時携帯。他の科を受診する折に必ず提示。
・定期的に受診。入れて暫くは場所や力が不安定なので、3ヶ月間は毎月、次は4ヶ月、…→暫くは半年ごと。



術後の経過が甚だよいので、11日に退院を勧められたが、12日、私がこの病院でチャリティのリサイタルを予定していたので(私自身がお世話になった感謝の意味で)、退院は13日に延期して貰い、義父もコンサートに同席した。
__________________________

以上。

ペースメーカーで迷っている方がいらしたら…と記載しました。

但し義父の場合は入れたのが86歳8ヶ月。そして亡くなったのは96歳4ヶ月。
若い方々とは違うと思います。しかも日進月歩の医学、今では又違っていることもあるでしょう。
もっと若ければバッテリーの入れ替えを勧められたに違いありません。
しかし、ペースメーカーのお蔭で充実した年月を送ることが出来ました。(火災も出しましたが・・・)
義母が亡くなった2002年以降は我が夫が二人三脚で過ごし、父親の我が儘を全部代行し、特にこの数年間は、夫が義父より先に逝ってしまうのでは?と心底案じたほど。今後暫くも疲れが徐々に出るであろうだけに、要注意です。

昨年、私の生徒たちの発表会の頃は、私がレッスンの合間に(生徒を待たせて)1日に10回も掃除の類(客用トイレ及び汚物を踏んで歩いた共有の廊下)をしていたように記憶しています。家族同居の場合には、介護保険でやって貰えるのは、週3回の入浴介助だけだからです。要介護度も高かった筈ですが・・・


天命を人為的に延ばすことに疑問を感じたことも屡々でしたが、延ばして頂き、特にこの数年は180°回転したが如き穏やかな感謝のみの義父の姿・・・それは書くべきではないので・・・いや、書くべきか・・いずれ又・・・



火葬の折には取り外すようにも注意を受けていたペースメーカーは、主(あるじ)を失い、我が家の家具の上に取り残されている。









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BGMがあれやこれや・・・ - 2010.08.28 Sat

気の向いた時に変更と相成っております。
(正しくは、放置に気付いた時に…)

プロフィールが作動しない折には、http://homepage.mac.com/chie_zart/music/1000_words.mp3からどうぞ。

又しても親馬鹿です。

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記録(その2) - 2010.08.20 Fri

8月19日

3:00 納棺式

その前に「湯灌(湯棺)の儀」が執り行われた。
義母の時もそうしたように(ただ、燃える前の座敷だったが)、庭からバスタブが運び入れられ、車から給水される。
そのバスタブの中で、煩悩を含めた全てを浄めるという儀式らしい。
横たわった義父にはタオルが掛けられ、遺族はひとりずつ「逆さ水」を注ぐ。足の先から胸元まで、桶から汲み取り手渡された柄杓を左手に持ち、水を残すことなくかけて行く。
顔も一人ずつ拭く。

その後、私たちは別室で待つ。

人体の不思議。湯灌を受けた身体は、命があった時同様、柔らかく自由自在に動くようになる。そしてお気に入りだった服にも着替えさせて頂ける。
義母の時は、義父の叙勲の折に着た和服だった。
義父は、家族の見慣れたシャツとズボン。

お棺に入り、上からジャケットを掛け。


夕方、アメリカから義姉(長女)が着く、というので、家族交代で近所の蕎麦屋へ出向いて久々の食事。


ところで、娘夫婦は早朝、父親に送られて成田から飛び立ちました。
こちらも、言ってみれば冠婚葬祭のひとつ。
今まで、誰よりも義父を看てくれていたのだもの。おじいちゃまも「元気に行っておいで」と伝えたに違いない。




8月20日

2時到着を目安に、ということで、少し時間にゆとりがあり2階のソファに座っていたのが・・・いつの間にか熟睡していた。皆さんが集まられたのも知らなかったほどで・・何とも情けない私。


今回の葬儀は「直葬・火葬」という形。所謂「密葬」で、「お別れの会(偲ぶ会)」は後日改め、仕事で関わってくださった方々と共に故人を偲ぶことと相成った。会場次第だが10月を予定。

だから今日は日華斎場にて火葬。
ごく内輪のみ、車を連ねて。

写真も不要、とのことだったが、やはり無ければ淋しい。早朝気になって目覚め、事後承諾にて教え子さんであられた池野徹氏のサイトから頂き、2枚をワード1頁に貼り付け、Copyrights©マークを入れてプリントアウトさせて頂いた。



誰もが吃驚したこと!!
義父は益々小柄になり、身長は160センチも無かったであろうに。。。
一番大きな骨壺を用意して下さったのだが、そして親族一通りお骨を箸で入れる儀式はしたのだが、あとは係の方でないと入らないと告げられたお骨の量!!
時々トントンと壺を台の上で叩いて細かいものを下に落としつつ・・
一同、「お別れ」というよりも寧ろ「入り切るのだろうか??」、と固唾を呑んで見守ったありさま。
流石にプロの世界は何処も凄い!!残ってしまうのでは?と思った量がきちっと収まったではないか!!

義母のお骨が、火災で壺ごと粉々になり、消防隊員の方々が必死で集めてくださったことを、おそらく天国で「私の分も」と義母が願っていたに違いない・・・




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数日分の記録 - 2010.08.18 Wed

(後で編集したいと思いますが、取り敢えずの記録)

8月13日(金)
工事の都合とかで、延々歩いてMRIを受けてきた。
3分から5分と書いてあるが、私には15分かかった。まるで物件の「駅から…」みたいだ。
しかも、この地図を見てすんなり到着出来たなら、脳の検査は不要、と思ってしまった不届き者。
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8月17日(火)
病院へ結果を訊きに行く前に、メールを書かねば、添付を仕上げねば、原稿チェックを何とかせねば・・・等々「ねば」の山積みで起きても、何も捗らず。

私のオンボロ車は流石に暑かった。窓を開けても暑い!閉めればもっと暑い!!クーラーが効く前に病院に着き、帰りもクーラーが効く前に途中のスーパーに着き、帰宅したら、買ったアイスクリームが溶けていた。

結果の画像を見せて貰ったが、2000年の微少梗塞点々・・の当時より、遙かにきれい。目立つものは私にはひとつふたつしか分からなかった。




夕方から娘夫婦を連れて、義父の入院している淵野辺病院へ見舞いに。
二人をピックアップする前に、義父の遠くないであろう万が一に備えて取り敢えずの段取りなどを夫と話す。


娘夫婦は去年4月に入籍したが、夫君の研修医という多忙な日々から、式を挙げることも出来ずに今に至る(東大病院)。式当日だけなら何とでもなるが、その前の事務雑務は到底できまい。当直続きの本当に大変な仕事だと痛感。娘は目下看護学校在籍(2006年東大文学部卒の後、暫くフリーターを経て)。二人で住める家が見つかる迄の暫くは我が家に居たが、義父の世話を実によくしてくれた。式は予定が立たないまま、この夏、たった5日間の休み(=今年唯一の休暇)が取れたとのことで、思い立ってウィーンへの遅い新婚旅行が19日から3泊5日で控えている。
おじいちゃまに会えなくなる可能性を考えて、ソレっとばかりに連れて行った。

雨がぽつぽつ降っていたのが、突然夕日が現れた。

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先日来酸素マスクの世話になっている義父。呼吸の苦しさもさることながら、痰が絡んで苦しさに輪を掛けている。ナースコールをして抜いて貰う。
この数年は、ペースメーカーで生き存えていたと思う。その心臓もペースだけは刻んでも(Schrittmacherの言葉そのまま)充分な機能は果たしていないようだ。素人判断ながら全身の隅々、及び肺に、勢いよく血液を跳ばすことが出来ていないのではないだろうか。

二人は我が家でもそうだったように、実に優しく好く接してくれ、娘は意識のない義父に語りかけ、さすり、目の周りを丹念に拭き、些細なパジャマのシワが痛かろう、と直してくれ、娘婿は薬剤を調べたり、様子を観察してくれる。

医師の話では、もういつ何があっても不思議はない状態だそうだ。
(後日娘経由で聞いたが、娘婿も検査データを見て察知したが、我々には知らせられずにいたらしい…)





8月18日
朝5時頃、夫のノックで目覚める。
「親父の呼吸が止まったと病院から電話があった。行ってくる」と・・
「私も…」と言いかけ、これはもう最期なのだ、戻って来た時を考え、スペース作りと掃除だ!と現実に頭が方向転換。暫く部屋の主が留守だった為、あたかも物置の如く・・・

夫から電話あり、到着した6時25分を死亡時刻と判定。

田中春弥・洋画家、享年96歳。
昨年辺りから体調を崩しがちで入退院を繰り返したが、生涯現役、と言ってよかろう。

まるで、孫娘に「やっと会えたね」と、安心したかのような旅立ち。
(娘に言いたそうにしていた意思は、娘にはしっかり分かったそうだ。動かない手を必死で動かしていた。目をうっすら開いて信号を送っているようだった。娘のみならず、娘婿のこともとても可愛がっていた。)

夫の親友が直ぐに葬儀社を手配してくれたそうだ。


片付けは妥協範囲で何とか進み、凄まじかった床も拭いてワックスをかけ、絵の具その他の汚れはカバー類で覆い隠した。
妹にも知らせたところ、多忙であろう中、来て手伝ってくれ、本当に助かった。間に合った。

息子には、やっと出勤途中で連絡が付き、妻と子供を連れてやって来た。
賑やかさに救われる思い。

義父は帰宅してドライアイスに囲まれる。
19日午後3時に納棺式、20日午後2時、多磨斎場(日華?)にて荼毘に付すことに決まった。
生花と弔電が次々届く。
所謂葬儀は「偲ぶ会」として、涼しくなった頃を予定(秋)。

夜、早速インターネットのニュースにて訃報が流れる。
新聞は兎も角、ネットでは住所は出さないで欲しい気がした。



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減点! - 2010.08.08 Sun

教会の帰り道、又してもカーナビを無視。
高井戸駅近辺のスーパーに寄るため。

国道20号線から環八へ入る辺りに、ほんの数百メートルだが自動車専用道路を通る(環八で下りなければ、そのまま中央自動車道へ繋がる道です)。
自転車も歩行者も居ない、束の間の快適な道。

いつものように左車線に入りたいところが、後ろから怖そうなバイク数台突進して来ているので、右車線に逃げた。
逃げたはよいが、そのバイク数台が私を追いかけているが如く思えた。

カーブでは路面の消えかけた文字で60km道路であることを確認。


やがて(と言っても数秒後だろう)、小さなサイドミラーに映るはバイク一台、私をめがけている。逃げる私。

環八に出る信号でワイワイ騒いでおる。
え?私に??
どうやらそのバイクは白バイ。

「右折して、停車出来るところで停めて待っていなさい!」と叫んでいるではないか!!

むっっっか~~~~~・・・・・


そしてバイクを降りてツカツカとやってきた警官。
こちらは免許証出して待機。

窓を開けたら・・・(こんな歳のばぁさんかい!?と、顔が物語っていたのを見逃さなかったぞ!!


スピードオーバーだそうな!あそこは50km道路だそうで。
路面には、かすれていたけれど60と書かれていたことを毎回確認していることも言った。
しかも、「そっちが追いかけるから怖い暴走族だと思って逃げた」ことも話した。
「確かに黒いバイクが居たんですよ」だそうな。そのバイクを追いかけていたのではないの???
そのバイクがスピードを落としたので、代わりに私を追いかけたんでは??
言うだけ文句を言ったが(こういう時はオバタリアン丸出し)、あの道路は50km制限だそうで、路面は兎も角として、表示が立っているそうだ。
(路面も塗り直して欲しいものです


という訳で2点減点。「おまけしておきました」と。ゴールド免許だから。
「もう一声!!」「・・・これ以上は無理です」


スピード違反はしたことないので(1980年代には、駐車違反で罰金払ったことはあったが)、その減点がどういうものか分からない。帰宅してからネットで調べたところ、今後3ヶ月間違反をしなければ免許証には影響ないらしい。(そういう問題?と思わなくもないが)


それにしても、私のボロ車で70km以上なんて出る筈ないのだけれどなぁ・・しかも上り坂で・・



そして、予定通り高井戸のオオゼキで買い物をし(でも、罰金15000円を考慮の上、倹約しながら)、今度は制限速度をしっかり守って帰宅しました。袋の中のアイスクリームは、帰宅したら半ば溶けていました・・・(これは車内の温度の所為。速度の所為にはしておりませんので~~


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プロフィールのBGMを - 2010.08.07 Sat

久々に娘のヴォーカルにしました。

表示されない場合はこちらからどうぞ。
2004年秋に行ったライヴからです。






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プロフィール

奥 千絵子

Author:奥 千絵子
★上の画像は2001年にCDにして約3枚分を収録したものを,2006年に2枚組としてリリースしたCD「樂の音に寄せて」です.『レコード芸術』2007年1月号で「特選盤」として取り上げられました.戸倉新樹教授によるライナーノートは医学生にもお薦めです.その他のCDや著書はWebsite「本館」からお入りください.このブログも「本館」のDIARYです.
★このブログの"Grüß Gott !" (文字化けの場合はGruess Gott!)は墺・南独の時間を問わない挨拶です.Website「本館」のDIARYです.出版CDや著書の詳細は「本館」のメニューからお入りください.
Website「別館」もあります. 著書「ピアノと向きあう」の説明を補うサイトです.よく頂く質問に説明を記載しています.
★上記著書については今井顕 氏によるKINOKUNIYA書評空間WEBLOG を是非ご一読くださいませ.
Auch auf Deutsch schrieb ich…
★【膠原病の記録】余りに医療のカテゴリーがが増えてしまったので目下整理中です.大変複雑な病気の経験が同じ病の方々への参考となりましたら幸いです.
「乳癌と膠原病(皮膚筋炎・多発性筋炎)」「膠原病(退院後)」 ,その他の医療の話(自分以外も含めて)は「医療・病院関係」,に取り敢えず分けました.
平成12.12.12.病院での復帰リサイタルは演奏動画入り記録です。
★恩師のことは55年間を遡り少しずつ記載するつもりです。目下のところはこれだけです.
★コメントも大歓迎です。SPAM防止上、確認後に公開しております。ご理解をお願い致します.
★このブログや大元のサイトへの感想やお問い合わせはservus2008@gmail.com宛に@を半角に直して送信願います.
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演奏:東京カンマーコレーゲン 
室内楽アレンジ:奥 千絵子
ショパン:華麗なる大円舞曲Op.18
演奏:奥千絵子 ショパンのワルツは上の画像の2枚組CD「樂の音に寄せて」に入っております.
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制作・著作:奥千絵子
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