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2020-10

Burgmüllerを通じて - 2019.03.15 Fri


永井進先生の『ブルクミュラー25の練習曲集』の音源に驚き、書いた2016年暮れの日記はこちらです。

最近、本当に凄い方だったのだ、と改めて思うことが多々あった。
まずは「明治44年生まれ」。
西洋文化から取り残されていた日本。大正生まれの先生方が東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)を受験された頃は、入試の課題曲は所謂「ソナチネ」も入っていたと聞いている。
昭和30年代の入試でのバッハの課題は「3声シンフォニア」(当時は「3声のインベンション」と言った)。私が入門した30年代前半頃は少なくとも高校生がシンフォニアを藝大入試用としてレッスンで弾いていた。
そんな時代だった。

だから優れた才能のある方を永井先生は藝大に送り込まなかったのだと思う。そのことも凄いが、昭和30年代に留学させたお弟子さん何人もの方々が、チャイコフスキーコンクール、ロン・ティボーコンクール、ジュネーブコンクール、リスト・バルトークコンクールなど、国際コンクールに次々入賞された。ヨーロッパに通用する音楽的芸術的下地を、当時永井先生が教え込まれたのだから。

事情あって小三から入門を許され(この事は又後日)、退屈なほど何時間も「座っているだけ」で年長者の方々のレッスンをBGMとして過ごしていた毎週末。それでも先生のお教えは無意識に耳から入っていたのだろう。先生のひと言で、まるで「使用前使用後」のごとく(失礼!!)変化するお弟子さん方の演奏を!!


話は数年前に飛ぶ。
上のリンク先の日記。「ぶるぐ協会」の存在も知らず、永井先生がそのようなLPを出されていたことすら知らずに…全てFacebookで知り、催しに飛んで行って二度吃驚!の日記(烏滸がましいながらも第1曲が始まり「私の演奏?」と思ったほどで…)。
その後、是非とも全曲聴きたい!との熱望から、ぶるぐ協会の飯田有抄さんにお尋ねしたところ、唯一板橋区の小茂根図書館に、LPからCDにコピーされて発売されたものがある(現在は廃版)とお教え下さった。早速該当区在住の妹に頼んで貸りてきてもらった。

又しても、恩師からの影響を感じた。

Burgmüllerの『25の練習曲集』は4〜5歳の頃に母の手解きを受けただけ。あとはひたすら「遊び弾き」のレパートリーの存在だけだった。1981年に帰国してからは、幼児にも音大を出た人たちにも、ロマン派の基礎、タッチの基礎、即興性を引き出す教材として教え続け、今に至っている。
勿論永井先生が指導なさるような曲集ではないから、この曲集を習った訳でも拝聴したことがある訳でもないが、永井先生のLPを拝聴し、全く違和感は無いどころか愕然とした(ペダリング以外は…)。当時の先生で、このような美しい表現をされる先生は他に居られなかったから。


私自身はかねてから、このような曲集こそCD化してみたいものだとの純粋な思いを持っていた。
奇しくも、左手を自転車事故で捻ってオクターヴが届かなくなってしまった2011年、生徒たちの発表会直前、本来はチェルニー40番を如何に楽しく美しく面白く(欲張り)弾くべきか、且つフランツ・リストへの道として講師演奏するはずが不可能となり、チェルニー30番全曲を私が演奏することになった。オクターヴが1回も出てこないので。
更に、これをCD化しよう!でもカップリング曲は??当然オクターヴが1回も出ない『ブルクミュラー25の練習曲』だ!!
そして年明けの2012年7月にナミ・レコードさんで収録をし、同2012年10月に《名曲への序章》のタイトルでリリースの運びとなった。兼ねてから指導しながら感じていたことを盛り沢山に記した分厚いブックレットと共に『レコード藝術』で「準特選盤」を頂いた。


日々が過ぎゆき、久々に恩師のCDと私のCDを並べて聴き、本当に烏滸がましいのだが、恩師の存在の大きさを実感した次第。我がCD、如何に永井先生のお教えを頂いているか・・・その曲集は全く習ったことはないのに。
常に己の心、芸術的個性、即興性(遊び心)を要求された永井先生。詳細は既に2016年、上のリンク先に記しました。

こっそり(堂々と?)数曲を並べて音源をアップします。クリックで鳴るはずです。
(お楽しみ頂ければ、ということで)


Burgmüller 25の練習曲集 Op.100より;
永井進先生の第1曲"すなおな心"
私の第1曲"すなおな心"

永井進先生の第3曲"牧歌(羊飼いの歌)"
私の第3曲"牧歌(羊飼いの歌)"

永井進先生の第14曲"シュタイヤーの踊り"
私の第14曲"シュタイヤーの踊り"


余りに厚かましく、面白がっているのは私だけかもしれないので、以上にとどめます。


「響和会」という名称 - 2019.02.07 Thu


何年も前、折しも私がWebsiteを作った頃だから2012年頃か…
「貴女のお母様は藝高と関係していらっしゃるのですか?」と何人かの藝高出身者に訊かれた。
「えぇっ!?!?」・・・いえいえ、とんでもない!!
尋ね返すと、私のサイトのプロフィール文中、「母・奥和子が1955年より主宰してきた『響和会』を1982年より引き継ぎ」と書いてある、とのこと。

1955年当時など、母は藝高の存在など全く知らない。私だって受験すらしていない。増してや、藝高と「響和会」の関係など私ですら初耳。2006年に逝去した母が知るわけもない。

母が、自分の生徒たちの集まりに「響和会」という名前を付けたのは、「ピアノの響きを大切にしてほしい」ということに加え、自分の名前「和子」から「和」を取り、更に、ピアノの上達のみならず、ピアノの会を通じて和やかな人間関係を築きつつ成長して欲しい、という思いを込めたことなどを聞かされた。それは物心ついてから…いや、詳しい意味は、母の生徒たちを引き継いだ時(1981年帰国して以降)辺りかもしれない。

確かに検索するとヒットする。
http://geiko.geidai.ac.jp/kyowakai/

だからと言って、今さら変更する!?
とんでもない!私は母の思いを引き継ぎ、このまま「響和会」を使って行きます。
調べてみると、他の音大等でも「響和会」を使っている団体はあるようだ。うん、思い付きやすい名称なのだろう・・・

ついでながら、懐かしいいにしえの発表会のプログラム2回分(戦後の尾を引く当時のことが故、今のように情報にうるさい方もおられないだろうと、名前を消すこともせず)アップします。
私が小1の昭和32年から始まり毎年、空いても1年半に1回は行われていた発表会。私が帰国して加わった昭和57年までは母がメインの発表会、その後は私がメインとなり、「響和会」の名前も使わせてもらって現在に至ります。

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色も薄ぼやけて、プレビュー画面で少し色を出すべく試みましたが、うまく行かず。

第一回の「中央幼稚園」は私が通っていた幼稚園。
その折の担任で、ピアノがとても魅力的なお優しい先生が、2007年の私のリサイタルにいらしてくださったこと、感謝感激でした。お礼の一筆をと思いながら、その後3ヶ月半のウィーン滞在(ピアノから離れた滞在)…住所録もないまま今に至り、不義理のまま・・
ごめんなさい。

文脈も支離滅裂・・・



恩師・永井進先生のブルクミュラー - 2016.12.04 Sun

記載は12月29日。年明け前に記録しておこう…と。


小学校3年から大学を卒業するまで師事したことになる永井進先生。大学時代は先生のリサイタル、ショパンコンクールの審査に出掛けられたり、後半はご病気でレッスンは少なかったが、13年間師事していたことに変わりはない。

不服ばかり母に並べたてた。
「まるで5分診療だったわ」と思い続けていた。
勿論、私の手は小さすぎ、小3でも7度すら怪しく、身長は120cmだった。本当に小さな子に見えたと思うし、精神年齢も幼稚園並だったのでは?
永井先生から宿題に出るのは、そういう手でも弾けるスカルラッティ、ハイドン、モーツァルトのソナタばかり。しかも緩徐楽章は心が届かないから、と省略。練習曲も、同じ位の年齢のお弟子さんが来られるようになった小学校6年になり、「チェルニー30番を10曲ずつ持っていらっしゃい」、その後引き続き「40番を10曲ずつ」となり、しかも指の動かし方の指導があるわけでもない。その後はクラマー=ビューロー、クレメンティやケスラー(他は名前も出ないほど)など一連の「練習曲」と名の付く物は弾いた。でも本当に「弾いた」だけ。あるテンポで弾けて止まらなければあがる。
中学になっても高校になっても、止まらず弾ければ「うん、いいでしょう」でおしまい。バッハも然り。暗譜で止まらなければおしまい。だから平均律クラヴィア曲集第一巻は中1の4月頃から宿題に出て、1週間もあれば(いい加減な)暗譜は出来てしまうので、どんどん進んで中2終わりか中3初めには終わったのでは?(終わったと言える内容ではなかったと信じているが)アナリーゼなど考えたこともない(ということだけ記憶している)。

そんなこんなで、本気になった高校時代は勿論、大学に入ってからの私は本当に苦労した。生徒を教えるにあたり、平均律も自分で学習し直した。Dux, Comes, Kontrapunkt、及びフーガのその他の決まり事や応用を。

それで母に文句を言っていた訳だが・・・


話は本題に。
11月末に、Facebookを眺めていたら「明治44年生まれの永井進さんのレコード。これが『25の練習曲』の名盤中の名盤だと、ぶるぐ協会は熱愛しています。」と目に飛び込んで来た。
世間にも音楽界にも疎い私は、初めて「ぶるぐ協会」の存在を知ったし、まさか自分の恩師がブルクミュラーの「25の練習曲集」を収録されていること、あんなに長く師事していたというのに、全く知らなかった。
ナントイウデシダロウ・・・
続いて、「『教育的』『模範演奏』といった類いのレコードが多かった昭和、この人はなぜにここまで、アーティスティックに美しいブルクミュラーを残してくれたのか。 『きれいな流れ』など、信じられないテンポでまったく別の音楽像を聴かせてくれます。涙が出そうな『やさしい花』。小粋な『スティリアンヌ』、お洒落でミステリアスな『バラード』...今のどの演奏家の盤でも聴けない素晴らしい芸術性です。12/4かなっくホールの『懐かしのブルクミュラー展』でお待ちしています。」と書かれてあるではないか!!

サイト上でお尋ねしたところ、ほんの10分ほどではあるが鑑賞会があるとのこと。
これは何としても聴きたい!!!
場所は全く知らない東神奈川。・・いや、新幹線に乗ろうとも飛行機に乗ろうとも、10分の為であっても行きますとも!!

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という訳で、午前中は孫の教会に付き合い、自分の(普通の大人の)礼拝は省略し、向かうは東神奈川。
折良く、その前の催しにも間に合い、楽しむことが出来た。

そして、いよいよ永井先生のブルクミュラーのLPだ!!

ブルクミュラーの不思議から  8229846_2238639856_114large.jpg



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第1曲〜第7曲と、あとは第15曲の「バラード」を聴かせてくださった。
大変おこがましく、横柄、且つ…単語が出ないし、呆れられるだろうし、口にすべきではないのだが、第1曲が鳴り始めるや、私のCDの演奏にそっくり!!」と思ってしまった。
続く曲々、少しペダリングが多い(深く踏み過ぎ。あのご年齢の方々は「踏むか踏まないか」で、ハーフペダルや耳で深さを踏み分けたり、徐々に深くする、徐々に浅くすることなどお考えにならない世代なので仕方ない)と感じたが、全く違和感なく聴き続けた。
どうしてだろう・・直接ブルクミュラーなどお習いしたことはなかったのに。

それは当然と言えば当然だ。8歳から毎週末の半日〜1日を、永井進先生のレッスン室で門下の方々へのご指導を耳にして育ったのだから。
レッスンの時間は決まっておらず、着いた順。午後1時の開門を目指して皆さん永井先生のご自宅の前に向かう。
開門すれば、当時既にピアニストでいらした方々や、藝大・藝高の受験生の演奏と永井先生のコメントを子守歌のごとく耳に過ごした日曜の午後。我が家は6歳離れた妹が居たので、母にしてみれば家事と妹の最低限の世話をして、あとは父や祖母に妹を任せ、私に付き添っていた。だから開門前に着いても、私の前には既に多くのお弟子さんがいらした。そのことが良かったのだ、と今になって思う。私に対しても、ほんのひと言ふた言の注意であっても、それは技術ではなかった。音楽の、それもとても深い位置にあることだった。

ある程度の年齢 - 高校1〜2年 - になってからのレッスンの厳しさは今も思い出す。同じ1810年生まれの作曲家であっても、ショパンとシューマンでは全く違うこと。ショパンの大曲を感情の向くまま弾いていると、「恋愛感情じゃぁないんだぜ!!」続いて「亡国への憂い、華やかなりし頃の祖国への愛情だろう?」との言葉が飛んで来る。シューベルトの曲が地味で飽きて、(内心、きっと忘れられているに違いない、と別な宿題のベートーヴェンを持って行くと)「シューベルトはどうした!まだ満足に弾けていないだろう?」と、しっかり覚えられていてみっちり絞られた。シューベルトの弾き方を。後になれば、リートの歌詞のように表現すれば良いのだ、と思ったが、ドイツ語も何語も分からない当時。
さりとて具体的な指示は一切出ない。傍で腕組みをしてリクライニングチェアのような椅子にもたれて音を観察されている。
ショパンの第2番のソナタ、第2楽章のオクターブの連打の部分は心の表現を求められ、瘭疽になるまでレッスンで反復して弾かされた高校2年。内面の表現のために。その為の技術、つまりテクニックは自分で工夫するもの。それが私達生徒の中では当然となっていた。
安直な練習はすぐに見抜かれたが、ガツガツ練習したらしたで、「了見が狭いから、そんな演奏しか出来ないんだ!」と怒鳴られ、深い音楽性への試行錯誤を求められた。
作曲家によるリズムへの指摘も厳しかった。特に他楽器の伴奏に於いて支えとなるピアノが刻むリズム、同じヨーロッパの中でも地域色の求められる作品。伴奏者が主導権を持つべきことも同時に学んだ。(永井先生の奥様はヴァイオリニスト、現・東京音大の教授でいらした)

ブルクミュラーに戻る。「バラード」の1箇所、クレッシェンドして頂点になる箇所、何度目かの時に突然、頂点をピアノに落とされた。
そうだった・・・そうだったではないか!!ショパンで、クレッシェンドした頂点の音をふわりとやわらかく音量を落とすことでも頂点を作れる、つまり頂点は音量を増した頂上だけではなく、落とすことの驚きでも作れるのだ、と教わったこと。ショパンのコンチェルトでも、美しいメロディをふわり、と抜く頂点。
「即興性だよ、即興性!」と何度言われたことか・・・


あぁ、永井先生、もっとゆっくり私の方が心を開いてレッスンを受けたかったものです。
もっと沢山、大人としての話がしたかったです。

そして、永井先生のように「創意工夫」と「試行錯誤」を課題に与える教え方を、私も充分に取り入れねば、と反省した日となりました。


繋がる思考回路 - 2015.11.28 Sat

本当に有難いブログの存在で…
「ブログ内検索」で単語を入れると自分の日記が出てくる。当然と言えば当然ながら、即刻当時のことを思い出せる。

「原文はどうなっていたのだろう?」と以前にも何か購入した筈…のこともだが、今日は、片付けをしていて出て来た葉書の大元は何だったのだろう?

ここに書いてあった。
(と、自分のためにリンクを貼る!)

それにしても奇遇だったなぁ。


前の日記で思い出したこと - 2013.09.19 Thu

前の日記に、最近は「飴と鞭の使い分け」の特に飴が重んじられ「褒めて育てる」傾向になった、と書いて想い出したこと。

私たちの世代は、恩師は怒鳴り、足をドンドン鳴らし、時にはライターが飛んできたり、楽譜が飛んできたり…という時代に育ちました。

おかしな思い出は、私の恩師である永井進先生と、永井先生の門下でもあられ私もお世話になった(と言うにはレッスン回数はほんの僅かで、躊躇われることですが)田村宏先生のことです…
当時まだ40代終わりか50代初めでいらしたと思しき田村先生が仰ったこと。
「永井先生は楽譜を破って投げて『帰れ!!』と怒鳴る。僕は楽譜だけじゃなくてレッスン代の封筒も一緒に投げて『帰れ!!』と怒鳴る。永井先生は絶対レッスン代は投げなかった」というものでした。
書いていても可笑しくなる懐かしい思い出です。
尤も、永井先生の1950〜60年代の場合は、レッスン代をテーブルの大きな灰皿の下に挟んで置く習慣だったので…
が、盗難事件多発。先生の車がレッスン中に盗まれた珍事(窓の外、ガレージから車が出ていったので、先生はてっきりご家族が、と思っていらしたら、何と!盗難だったことが後になり発覚)、そのうちにレッスン代も無くなることが屡々、とのことで、私達は伺うとレッスン代をキッチンにおられるお手伝いの方に手渡すように言われた時期があったのです。

教える身になって30年40年が過ぎ、レッスン代は生徒が先生に「お願いいたします」(若しくは「有難うございました」)と手渡すものだったのではないか?と当時を振り返ります。
明治生まれの永井先生、おそらく謝礼を直に受け取るなど、という何かがあったのでしょう・・・

又しても訃報… - 2012.05.22 Tue

カテゴリを「恩師」にしてよいものかどうか。

お世話になっている友人からメールを受け取りました。

そうだ!写真をアップさせていなかったっけ…
と思い出し、過去の、それもまだ書き途中で編集もしてもいなかった日記に、写真を入れて「公開」にしました。


2006年6月 Salzburg
2006年6月 Wien
2007年7月 Salzburg
2007年7月 Wien

上記の中、「2006年6月 Wien」の最後の部分に写真を掲載させて頂きました。
ご冥福をお祈り致します。



2011年を振り返る - 2011.12.31 Sat

一体どんな年だったろう?と思うに、まずは大震災や、異常な洪水。
人間の力の弱さを感じた年だった。いや、人間の作ったものは必ず自然の力に負けること、だろうか。
けれども復興に向けて、被災者一人一人の人間としての強さをその後感じたものだが、上に立つ東電や政治家たちはどうだろう…難しいことは重々承知ながら、残念なことが多かった。

私個人は、昨年の疲れを引き摺ったまま、体調管理もままならず、あちこちにご迷惑の掛け通しだった。

そして、何と言っても、3人の恩師に逝かれてしまったこと・・もっと早くにお会いしていれば、お話ししたいことも山積みのままで、…いや、特に堅苦しい内容でもなく、近況の雑談…悔いが残る。
2月に亡くなられたハンス・ライグラフ氏、5月には田村宏先生を新聞で、そして10月には、既に8月に松浦豊明先生が亡くなられていることをネットで知った。

戦争をくぐり抜けた方々は過酷な生活にも立ち向かい、心身共に強く、長命でいらっしゃるのだと思う。
おそらく私らの世代は、…どうだろうか…
一生をピアニストでもありたい、と思うし、プロ・アマ、どんなレベルも教えられる教師でありたい、一生をピアノと共に過ごせる楽しさをお教えしたい、とも思う。
でも、目下のこの体力と精神力で??

何から優先すべきか考える機会を与えられた気がする。


松浦豊明先生が亡くなられてしまった!! - 2011.10.23 Sun

昨日の夕刊各紙に掲載されている!!偶然、本当に偶然!ネットで知った。「まさか!」「まさか!」と次々検索すれど事実のようで…。
我が家の昨日の夕刊を探した。掲載されていた。ネットが壊れたことを願っていたのに・・
8月16日、心不全でいらしたそうだ。近親者で告別式を済まされたことも書かれてある。

去年奥さまの滋(しげ)先生が亡くなられた、ということを喪中葉書で知ったばかり、お悔やみに伺いたい、とずっと今年は思っていた。言い訳でしかないが、自分の体調管理でいっぱいいっぱいだった今年(過去形にしてはいけない)。そんな矢先、更なるショック。

私が留学するに際し、松浦豊明先生は勿論のこと、奥さまが色々とウィーンの情報を調べて下さり、又お二人からは留学にあたっての貴重な注意を頂いた…それが1974年のこと。

そもそも留学を勧めて下さったのが松浦先生だった。
大学卒業当時、左を向け!と言ったら全員左を向き、右を向け!と言ったら右を向く存在であった音楽評論家・野村光一氏が、私も国内のコンクールを受けるべきで、それには松浦先生に習うのが一番!と言われた旨を先生にお話しした時、貴女は国際コンクールの方が合っている、渡欧は少しでも早い方が良い、と仰り、野村光一氏にも進言して下さったのだった。
結局翌年の1974年になってしまったのだが。
一時帰国の度にお訪ねすると、奥さま手作りの食事でおもてなしを受け、近況をお話ししたり、ご夫妻からはさりげないアドヴァイスを頂いたり、私にとっては感謝してもしきれないほどのご夫妻・・・なのに、何のお礼の言葉も述べぬうちに逝かれてしまったとは・・

大切なことは先延ばしにすべきではなかったのだ。自分の体調など無視してでも。
又しても「悔い」を作ってしまった・・・


田村宏先生の逝去 - 2011.05.21 Sat

19日でしたか…病院の帰りにガソリンスタンドに寄り、オイル交換を待つ間、中に入って目を通していた新聞・・

田村宏先生が18日に亡くなられたとの記事!!

田村先生には大学時代(確か大学3年時)、永井進先生が入院された時に、単位の都合で田村先生のレッスンを受けました。いや、こちらから「田村先生に」と希望したことも蘇ります。
5月の連休明けから6月の学内演奏会に備え、又7月の学期末試験へ向けて、たった2ヶ月間だったと記憶しています。
永井先生と田村先生は師弟関係にありながらも、教え方が対照的で驚いたのなんの…長くなってしまうので、ここではいずれ又。



田村先生との出会いは、私ではなく、6歳下の妹・千歌子が先でした。

昭和37年に始まった第一回のNHKテレビ「ピアノのおけいこ」は永井進先生が講師をなさって、当時永井先生のところには、私しか小学生の生徒が居なかった為、最初の収録当日急遽電話で呼び出されました。
更に永井先生のお弟子さんの松崎俊三先生(伶子先生の御父上)のお弟子さん4人と共に、スタジオに向かった…とは言え、全くの初心者向けのバイエルを使った番組を、バイエルは3歳頃に弾いていた、という子供達がモデルになるのですから、先生の3ヶ月間のご苦労たるや・・こちらも毎回如何に下手に弾くか、あれこれ強いられて大変でした。
うっかり普通に弾いてしまうと、「何も注意することがなくなってしまったじゃないか!余った時間を埋めるのに苦労した」等と、今思うと可笑しいお叱りを受けたものです。
休憩時間に5人で騒いでいる時間は、学校の休み時間とはまた違った楽しさがありました。

そのNHKの「ピアノのおけいこ」は、その後どんどんレヴェルアップし、講師も色々な先生が交代。3年後の昭和40年(合っていますか?)、田村先生が講師をなさった時は100人もの学習者がオーディションを受けて、選ばれた6名(だったろうか?)の一人が6歳年下の小3の妹でした。

オーディションで選ばれた子供たちですから、当然皆さん上手。
時々スタジオに(妹の付き添いを口実に)見学に行ったものです。

易しいチェルニーの練習曲であっても、「その部分は、どのように工夫して練習したの?」といった風に、小1であろうと小3であろうと、自ら練習の工夫をさせる田村先生の教え方は強く残りました。
リズム変奏などといった単純なものではなく、ほんの1小節の中のあるパッセージで、1本の指が不器用なために上手く行っていない時、その1本の指に注目をさせ、そのためには?と工夫を促すものでした。

その後、姉妹で師事することに話が進んでいたのですが、(封建的な諸事情、と書いては顰蹙を買うだろうが)その話は流れ、そんなこともあって一度は師事したい、と思っていたので、その大学時代の2ヶ月間は貴重・・それ以前に、毎週レッスンがあるなんて!!と吃驚したものです。


書きたいことは山ほど・・・
凝縮は難しく、私などが書いてはおこがましいであろうことも多々あり、これのみ。


夫は、若かりし頃、「鱒」(シューベルトの五重奏曲)でよくご一緒させて頂いたこともあり、ウィーンでもお会い出来…
お通夜に参列させて頂きました。



タイトルと逸れてしまいました。
又改めます。

感謝しつつ、ご冥福をお祈り致します。



恩師の逝去  - ハンス・ライグラフ氏 -  - 2011.02.17 Thu

朝、中学以来の友人からメールが来た。
「Hans Leygraf(ハンス・ライグラフ)氏が逝去、と新聞に出ているけれど、貴女の先生ではなかった?」といった内容だった。

えっ!?

http://bohyo.blog84.fc2.com/blog-entry-3519.html

暮れに、留学当時の先輩クラスメイトから、先生も奥さまも具合が悪いらしい、ということは聞かされていたのだけれど。


私は1977年春に入門した。
その年にミュンヘンで入賞出来たのはライグラフ氏のメトーデのお蔭だと思っている。

また、今回の私の著書はライグラフ氏の指導法からの影響も多く、特に「18種類のタッチ」として記した【A】~【R】のタッチのうち、【C】【D】【J】はライグラフ氏からメトーデとして得た重力奏法としての練習方法であり(留学前にも自己流の思い付きから、ほぼ同じやり方でハノンなどを用い、強弱を付けて練習したことはあったが)、これら無くしては18種類は成り立たない(【A】と【B】はそれ以前にWeber教授から習った「分類しての練習方法」で、これらは18種類のスタートとなるもの)。
それらを練習・演奏会を通じて消化し、指導し、いつの間にか「18種類に分けて基礎練習する」、という私自身のメトーデになった。
ライグラフ氏の口癖は、「一番大切なことは、自分自身のメトーデを作ること!」だった。
だから、ライグラフ氏の教え無くしては本の出版も無かったに違いない。


2006年と2007年には、(何と!!)約30年ぶりに先生及び奥さまにお会い出来たこと、思い切ってあの時行っておいて、本当によかったです。

2007年は、折しも体感温度40℃という異常気象。暑さでへたばっている私に、「君は私より30歳若いんだから」との叱咤激励の有難いお言葉・・一体何度言われたことか・・・
しかも「自分はヨーロッパでは現役最年長のピアニストだ」と(当時86歳でいらした)。それからも去年まで現役の演奏家として活躍された。


又天国でお会い致しましょう、先生! 出来れば30年後に!!


ライグラフ先生を含め、恩師のことは又改めて書きたいと思います。





前代未聞の酷暑/ザルツブルクへ! - 2007.07.23 Mon

何年も経ってからのコピーペーストです。
まだ、「え?私がブログなんて…」という頃の日記。
2007年12月31日以前の日記は、後になって遡って記載しております。

それ迄は、インターネットに公開する、と言っても全て仲間うちの鍵のかかった書き込みサイトで…
でも、それらは消えてしまうことも分かり。公開して構わない内容はブログに移動することに(これとて消える可能性はあるのだが)。

(カテゴリを「恩師」にすべきか「オーストリア」にすべきか迷いました。複数選べたら嬉しいのだが)

携帯から某日記サイトに書き込みをし、友人たちとやり取りをしながらの旅行の記録がいくつかあります。

勿論友人達のコメントはカットし、前後関係のために必要な私のコメント部分は編集してアップします。
前の年にも旅行したというのに、記録がない為、すっかり忘れている私の頭。勿体ない!!

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凄まじい異常気象でした!ザルツブルクが40℃!!
車のボンネットで目玉焼きを作ることが出来るほど、とテレビで本当に焼いている画面を放映。


旅行中の写真は後で載せることにし・・・(と書いて、編集した翌日に加えました)

日記途中の時刻は、全て日本時間です。携帯電話の時間設定を日本時間にしたまま書いていたので。

また、携帯の機能で、1文字打つと余計な単語候補がズラズラっと出ていることに気付かぬままアップしていたようです。気付いた範囲では消しましたが・・・

_______________________

無事に着きました (日本時間)2007年07月17日07:57


これからあの空に飛ぶのだ!!とワクワクし・・・

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真夜中にやっと着きました。
汗流してホッと一息テレビ点けたら、日本の大変な画面が…
そんな時にのうのうとゴメンナサイ!

フランクフルトの乗り換えが遠くてバテて、待ち時間も長いので恩師に電話。
モーツァルテウムでこっそり練習でも、と思ったら講習でごった返して不可能だそう。
当然ご自宅に行く事に。
それは大変嬉しい事で、お喋りメインで、演奏会とは無縁の曲を二曲これから仕上げるつもりだったのです。
密かに予感していたことではありますが、「リサイタルのプログラム全部弾くのか?」
とんでもない!
取り敢えず木曜にお邪魔します。絶対二曲だけ!意志を強く出掛けます!

遊びほうけた手指で。

話していると、卒業生のお歴々が定期的にレッスンに出掛けているらしいことが窺えます。

私は絶対Erholungです!先生ご夫妻とのお喋りも含め…

と、清々しい朝。
あちこちから一斉に教会の鐘の音が・・

思わず、初めて使うデジカメにも拘わらず、動画を録ってしまった!!音も入るだろう、と。

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…………………………………………………………

「レッスンもErholungのうち 」との友人の書き込みに甚く納得、深~~く頷いてしまいました。
でもライグラフ先生の場合は練習していなくても(いなければ?)容赦無し。30歳の年齢差は永遠に30歳…
寧ろ、先生ご自身も私も完全に30年前にタイムスリップするらしい…苛酷なほど(絵文字出るのかしら?)
去年は知恵熱出しました。
(自宅なら奥様が忠告、提言して下さるでしょう…そろそろ休憩、と…hoffentlich)


2006年6月に娘とザルツブルクに行きました。
ザ・サウンド・オブ・ミュージックの舞台になった場所を見たい、との娘の希望と、私自身は、かつての同門の方からの年賀状に深く頷くものあり。それは、10年ぶりに先生のレッスンを受けて大変感動した、という内容。私は、と言えば30年近いご無沙汰で…
卒業してからレッスンを受ける、しかも帰国してから渡墺してまで受ける、などということは考えだにしたことなく…寧ろ私にとっては「呆れる」に近いことだったのです。
ただ、前の年同様、お会いしたいと思っている方々には、お会い出来る時に渡墺すべき、と考えは変わり。
本当にお会い出来ずに、お礼を述べることも出来ずに、どれだけ多くのお世話になった方々が天国に行かれてしまったことか。
…悔いが甚だ残ります。

 
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モーツァルテウム夏期講習を受講されるTさんから、昨日は講習初日だったので練習室の申し込みなどでモーツァルテウムはごった返していたこと、こっそり潜り込めそうな気はする、という情報を得た。
が、先生が、かなり時間があるからいつでも来い、というのは、既にファクスの時点で「学校ではなく自宅」を意味していたことに気付く。
疲れが取れたら潜り込む計画。
いずれにせよ新しくなった建物はまだ知りません。去年はアスベスト撤去の作業中で。
私の頭にある練習場所はSchwarzstrasseの屋根裏です

今朝のニュースでオーストリアの異常気象をやっていました。車のボンネットで卵焼きが作れる、と。車内はオーブンとも。 気を付けましょう !
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17日の日記  2007年07月18日05:53

午前中、駅に行って念のため鈍行の時刻表を貰いました。

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(駅への道)

それだけで汗だく、改装されたモーツァルテウムに行ってみることに。
改装される前の校舎も1978年か1979年に出来、その現代風な建物に吃驚したものですが(記憶が繋がってきました。ミラベル庭園から出入り出来る。3~4回Klassenstundeで弾かせて頂いただけですが)、今回はそんな比ではない!(去年のモーツァルト年で収益が回ってきたかな?)

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思わず校舎一周してしまいました。

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(30年前にここの学生でした、と受付の方に懇願して撮って頂いた)


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私が1977年春から通ったのは、ミラベルを挟んで反対側の道路(Schwarzstrasse)沿いの昔ながらの校舎。

一旦ホテルに涼みに帰り、午後はザルツカンマーグート行きの観光バスに乗りました。
暑かった!
(ひとまず送信))
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当たり外れ(前の続き)  2007年07月18日10:43

人間万事塞翁が馬、と思うものの、当たり外れに一喜一憂したり、全てが神の計画、と思ったり。

前の日記の途中で眠ってしまったのだけど…

ザルツカンマーグートへの観光は、温室効果ガス…ドイツ語でイヤほど読んだTreibhauseffektgas…
クーラーも利かないほどの大型観光バスの大きな窓。自分で「気を付けよう」と書きながら迂闊でした。
又、前回が「The Sound of Music」のツアーでザルツカンマーグートが駆け巡りで終わったので、一箇所ゆっくり、と思ったら…
一覧にあるFuschlは何と!通っただけ!Mondsee然り。マリアが結婚式を挙げた等も解説無し
しかも採算性重視で、ドイツ語英語フランス語希望者を詰め込み、三カ国語で一気に説明。Prestissimo!(解説にあらず)

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何より暑い !!
こんな暑さは想定外で、クーラーも殆どの家に無いのですから…
幼児や高齢者が次々亡くなっているニュース・・信じられないことです。


それでもSt.Wolfgangでは50分の自由時間 。

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「白馬亭にて」(オペレッタのタイトルにもなっている)アイスクリームと生クリームたっぷりのWiener Eis Kaffeeを湖を見ながら満喫。(昼ご飯もこれだったのに)

♪ Im we~issen Rössl am Wo~lfgangsee … … ♪

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地方色豊かなSchild屋さんがあり(表札とか看板とか)、ふと見馴れない「Griass Di!」なるものを見つけました店の上品な女主人に尋ねたら、ウィーン訛りのGrüss Dich!を、この地方では更にこう言うのだとか。買ってしまいました。誰の部屋に下げよう??

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帰りのバスは「白馬亭」の中で"Das ganze Welt ist himmelblau"を流してくれた。
久々にシュトルツのオペレッタが見たくなりました。


それにしても疲れました。
明日は夏期講習をクーラー利いた中で見学でも…と思ってみたのですが、これまた当たり外れの代表!
Tさんのような優秀な受講者に巡り逢える保証はなく、どこの誰とも知らない人をじっとストレス溜めて座っている可能性も…しかも講師とて同様 …

明後日に備えて寝ていますか…

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日付的には3つ目の日記   2007年07月18日21:07

疲れて歩けず、かと言ってホテルでじっとしている程馬鹿げて思える事は無い。
せめて隣接するミラベルに生い茂る木々から気を貰おう、と散歩していたところ、後ろから「ここは自転車のゾーンよ!」と突進して来るオバサン。
あぁ、この街も変わってしまったのか…と嘆きつつ歩き…

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自転車!?!?
その手があった!!!
ホテルのフロントに戻って尋ねれば、勿論ありますと私のサイズを探してくれました 。

取り敢えず4時間借り、ザルツァハ川沿いや旧市街を、まるでトラップ家の子供の様に走って(このホテルのカーテンで遊び着でも作る?)、一旦遅い昼食&休憩。

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ギアチェンジ初経験。子供達を前後に乗せてママチャリを走らせていた人です。何て便利な…
これすら文明の利器と思える化石人間です。

欧米人用自転車にて既に手が震えております。筋肉痛は明日?明後日?

明日ピアノは無理でしょう…
午前中さらって午後レッスンだそうですが

列車が入ってきた
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車窓から
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M子ちゃんへの返信

疲れたよ~
ホテルに帰り着きました。
朝10時15分発各駅で48分に着き、先生の車にてご自宅へ。
ザルツブルクで練習出来ないなら夕方迄さらったらどうか?と来た。私のいやそうな表情が伝わり、取り敢えず1時迄さらう事に。土曜まで泊まりがけのつもり!?
有り得る ・・

30年ぶりの部屋!ベーゼンドルファーとスタインウェイが並び、流石にタイプライターはワープロになっていました。
1時迄さらって食事を頂戴し、奥様とも昔話あれこれ次々楽しく、先生のお馴染み駄洒落を楽しみ、シューベルト二曲も喜んで頂き充実したレッスン。


これで終わりのつもりで…コーヒーとお菓子頂き、奥様とパッチアダムスの話迄出て……
しかし先生はひたすら、私がザルツブルクで練習場所が無い事、まして、どうして日曜にウィーンなど益々練習と無縁の場所に行くのか?と気に入らないらしくて…。(ウィーンが第2の故郷、とはとても言えない)
余り奥様と話に花を咲かせているものだから、「さぁ、次は何を弾く?それとも私のショパンのレッスンをしてくれますか?」と真顔の冗談…先生は87歳にしてリサイタルにショパンを殆ど初めて入れる事になっているそう。私がゆっくりトイレに入っていたら、Fis-durのノクターンを弾いて待っておられる。
まだ終わりじゃなかったんだ…でも奥様に何か言われたに違いない奥様だって85歳位。長居したら申し訳ない。

でも弾くのを待っておられるので短いもので終わらせよう!と、何年も弾いていないリストのエチュードを弾いて…案の定、お気に召さず…。

どうしても毎日レッスンをして下さりたい気配。


去年、もう一回来たかったら電話しなさい、と言われても昔ながらの事、先生のペースに乗ったら病気再燃する事見えたが、娘は「もう一回行ったほうがいいよ。来て欲しそうだよ」と鋭かった。
幸か不幸か高熱出して連絡すら出来ず。


今年も、「さらえないのに二日間何してた?」でした。
レンタサイクルで走り回った楽しさを述べたら返事なし。ザルツカンマーグートのツアーに行った事も然り…
そう言えば、先生の家もれっきとしたザルツカンマーグートだ。
昔、生徒何十人で押しかけて湖で泳いだなぁ…

改めます。

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暑過ぎ!疲れた!  2007年07月20日06:21


異常気象。
雨一滴降るどころか、雷が鳴るどころか。

炎天下の自転車も気付かぬ落とし穴だったか…

明日金曜はもっと暑いらしい。39度とか。 前代未聞。

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ホテルのエアコンの温度設定下げたけれど変わらず。
明日は午後13:15の電車でさらいに行き、もう一人日本人がレッスン受けている間に屋根裏(昔、泊めて頂いたところだ)の猛暑になりそうな場所でさらい、もう一人の人が終わったらモーツァルトのレッスンしたい、もとい、して下さりたい(暑さで敬語も変。そもそもドイツ語で喋っているのですから)、って言われて断る元気もなく戻ったわけですが…

ちょっと街中歩いてもクラクラするのに!
断るべきでしょう。今、ザルツカンマーグートの天気調べたけどザルツブルク街中と変わりません。

いや~~、暑い(本来は日本の5月頃の気候の筈)

水曜日には、どこかザルツブルクらしいところに、Tさん及びIさんを食事にご案内したかったのですが、出歩く気力もなく、ホテルのレストランに出向いて頂き、とても申し訳なかったです。
しかも最初はミラベル側の屋外に座り、食べ始めるや蝿の襲撃 (雨や雷の前触れ、とウェイトレスさんは言ってたけど、とんでもない)
中に移動したらクーラーの真下。彼らが風邪ひかれていないか心配 。
クーラー消して貰ったら蝿が最後は中に来ました。

そうそう、明日は11時からTさんのレッスンを聴講する予定で楽しみにしている訳ですが、その前に又レンタサイクルで、と思っているところ。
その後で電車に乗って先生が車にてStrasswalchenまで迎えに来てくださる…感謝すべきことが考えただけでクラクラ …
もう一人のかたはK.I.さんの弟子、つまり先生の孫弟子で、おそらく勧められての若い学生さんでしょう…体力が違う…

又ずっとうたた寝して今しがた起き、思考回路停止、支離滅裂だなぁ…と思いながら書いています。こちらももうじき金曜日です。日本時間の頭は寝ているのかな??

汗流して来よう

帰りのStrasswalchen駅で長い長い貨物列車に出逢い、慌ててデジカメを取り出した。
日本では宅配トラックに取って代わり、貨物列車にお目にかかる機会がなくなった・・・
小さかった頃は、踏切で列車の数を数えて、翌日小学校で自慢し合ったものでしたが。

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2007年07月20日 07:12

シャワー浴びつつ、今日の奥様はやはり猛暑で疲れていらしたのではないか?と気になった。
日頃はスウェーデン式に朝と夜しか食事をなさらない、と話しつつの昼食。これ、私の為に?と申し訳なかったです。
どうしても30年前にタイムスリップしてしまうけれど、当時のご夫妻は今の私位だった訳で…
先生がいともあっけらかんと冗談おっしゃるのだが、今日、奥様が仰った「生徒は笑い転げるけど私はいらつくだけ。相手してられない!」は、きっと本音だったに違いない。
きっと私が着いた頃は休んでいらしたのでは?? と案じる。
明日が午後1時過ぎの電車で二人、というのは昼食の準備が疲れるからでは?本来私が何かすべきだったのでは?

などなど…あれこれ脳裏に。
せっかくのご好意ご親切が、このような異常気象が故、裏目に出たり徒になっては…

しかしながら口惜しい気象です。

先生は元気!今年は杖無しで階段をトントン。年間25-30回のコンサートがあるそうだ。コンチェルト含めて。
内助の功や如何に。

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M子ちゃんからのコメントの中の一文、「お歳を考えると、そして貴女の体調を考えると、もしかしたらこれが最後のレッスンになる可能性が大きいよね。 しんどいでしょうが、気力で頑張って下さい。 」
とあった。
そうなんだ、きっと最後になるんだ。
すっかり忘れていました。私も最初思い付いたきっかけはそれだったのですよね。
お世話になった方々で存命の、しかも、ご年齢にも拘わらず現役でバリバリ活動している姿を見せて下さっている唯一の…

余りの異常気象(小さい子供が沢山命を落としているそうです。お年寄りのみならず)で思考力を失っていました。
M子ちゃんのの言葉にポロポロ涙が零れました。
頑張って行ってきます。

………………………………………………………

凄まじい暑さです。
ピアノを弾きに行かねば、という気持ちで何とか切り抜けています。

普通に街を観光していたら倒れています。

屋根裏は真っ暗に締め切って下さってあったので、辛うじて生きていられました。それと曲がモーツァルトのKV.331(トルコ行進曲付き)全楽章だったので体力は要らない。

でも疲れて床に大の字になったら、イビキかいて眠っていた。

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前の日記が長くなったので…   2007年07月21日10:49

もう一人の日本人、と言われていたが、駅でもそれらしき人居なかった…何と!13歳の女の子と母親に11歳の妹!分からない訳だ…
駅降りて、先生もびっくり!もっと大きな車で来るべきだった、と。


その前、午前中はモーテァルテウムの講習を聴講したのです。
これは、Tさんがどの様なレッスンを受けておられるのか?という興味もさることながら、その先生の名前をTさんから聞いた時、名前に顔が一致してしまい……何と!昔、若かりし頃、いくつかのコンクールで受験者としてご一緒した記憶が蘇ったからなのです。

これも又いずれパソコンで…


話は猛暑!!
新聞はどれも1ページ目はこれです。

いやはや…曲が曲だったので何とか過ごせました。
逆にピアノに集中する事でしのげたかも。

昔は(って昭和30年代)クーラー等無い中でリストだの体力的な膨大な曲を弾いていた訳ですから…でも連日38-9度はなかったでしょう。それに扇風機はあったし。

問題は更に…
どうしてもリサイタルの曲全部を管理…いや、お聴きくださりたいご様子。
私は門下だった時から管理されるのを避けていた。傲慢、と誤解を招くかもしれないので、これも又後日パソコンで。

問題は、「又明日来なさい」なのです。
猛暑で疲れていること(ちゃんと言いました)、荷造りもあること…

レッスン受けに日本からわざわざ飛行機で来たのだろう?と。…これには息抜き兼ねて、とは言えず…
ひたすら「信じられない猛暑で疲れた」を通したのですが、じゃあ冬の雪の中を又来るかい?と。
はい、来ます、と言ってみたら、奥様に「彼女は雪の中を来るそうだ」と伝えいる。奥様は「私達は歳だから冬迄生きているかどうか分からないのよ」と、母がよく言っていた言葉を言われてしまった……

あの暑い屋根裏で何年も弾いていない英雄ポロネーズその他を??

(半ばやけっぱちで)又明日来ます、という事に。思考力も皆無にて。
それに、先生が1920年生まれで私が1950年生まれ、ということが何故かしっかりインプットされている…二言目には「私より30若い」と言われ、車の送迎までして下さっては…
先生もあれこれ病気はなさっておられる。

レッスンの間ずっと先生の耳から補聴器のピーーー…うちのおじいちゃんのと同じ音。

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起きてみたものの頭痛と眩暈。
薬飲んで少し治まり朝食しっかり食べてきました。朝食だけが唯一規則的エネルギー源
そう言えば毎日頭痛で鎮痛剤飲んでいます。ロキソニン。
これだと発熱すべき体調も薬で抑えられてしまう…怖いかも

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ザルツブルク最終日    2007年07月22日02:50

午前中は頭痛薬を飲んで横になり、昨日と同じ昼過ぎの鈍行でStrasswalchenへ。

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デジカメも存在忘れているので、今日こそ使おう!車窓を、と動画試みた。 (後に編集&アップしました)
天気も良いし、動画に暑い様子が撮れたら、と思う。

いつも到着より早くいらして待って下さる先生を列車から!と思い付いたのが遅すぎ、通り過ぎて残念でした。

車の中では、珍しく私の体調を詳しく訊いて下さり、どうした風の吹きまわし??と思えば昨晩初めて私のCDを奥様から渡された、と。 (ライナーノートをお読みくださったようです)

練習も屋根裏ではなくレッスン室。
何時間さらうか訊かれ、切りのよい2時まで、って50分ででっちあげ。

コーヒータイム。
明日、昔のお弟子さんで右手を怪我で失ったピアニストのコンサートがある、と奥様がおっしゃる。
そのことを真剣に奥様が喋っていると、先生は「足を手の代わりに使えばよい」等言いつつへらへら笑っているから、奥様に本気で怒られていた(私も内心立腹)。「最近、言ってよい冗談と悪い冗談が混ざり合って…ヘトヘト…」と奥様は仰る。
叱られまくっていた。

奥様とは又昔話。
私がどんな門下の方々と一緒の頃に通っていたか、今ひとつぱっと出ない話から、色々な門下の方々の話題になり…。
奥様も生徒さんの色々な気遣いで大変だった事でしょう…と私から本音を吐きました。奥様は一を話すと十を分かって下さる。
先生のお弟子さんたちは嫉妬心の強い人が多かったそうです。
そういうことだったのでしょう。私は何もない街で(素晴らしい風景以外は)、仲間の噂話で過ごす時間はウィーンに戻って音楽会やオペラに通いたかったこと、先生がおられるのは月の三分の一にも満たないので、等々、奥様に初めて話したかもしれない。
でも、奥様は何もかもご存知だった!先生の我が儘も含め…


肝心のレッスンも今日は極力短く。ポロネーズ2曲だけ。ボロボロネーズでしたなぁ…
急いでも帰りの電車がまだまだ先だったので、今日こそ写真撮りました。


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許可得て家の中も。
(これは流石に情報漏洩……載せません……が、1箇所のみ失礼いたします)
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ここはレッスン室とは別に、大きな窓のあるサロンとなっており、窓からは湖が見える。
在学中、コンクールの前など、近所の方々を集めてサロンコンサートを企画してくださったものでした。
上は2007年。

下は1977年。
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パソコン新しくしたら動画もアップしよう…多分来年だわ…

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(先生運転での車から)


もうじき8時なのにこれからオヤツみたいな明るさ。

疲れて動きたくないが荷造りだ!
ひとまず送信。

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日付では日曜二つ目の日記    2007年07月22日17:56

無事にウィーン行きの列車に乗りました。
添乗員無しの形ながら一応はツアー扱い。移動の時だけ旅行社の人が来る。ザルツブルク空港に迎えに来た人も去年と同じ、さっきホテルに迎えに来た人も去年と同じ。
案の定、客の荷物を持つでなしどんどん歩くから飲み物買いそびれ、今車内販売を高く買いました。コーラ1本500ccが2ユーロ50セント。400円位。
ザルツブルク駅で今朝日本人の盗難が二件あった為、旅行社の人もクレジットカードを詳しく検査され、我々待つ事30分。
プロなら前日迄に買っておいて欲しい。
他にもホテルで不手際があり(チェックアウトは自分でするのだが、旅行社からBarScheinを貰っている筈だから見せてくれ、と言う。そんなもの貰っていないわい!後で係が迎えに来るから尋ねておくれ、で解決はしたものの…)、次回からはドイツ語圏に限り旅行社は使うまい
確かに団体料金で安くなっていると思うけれど。

今回はウィーン行きがもう一組居て(若いカップル)、荷物運びを手伝ってくれているので助かっています。

今日は小雨混じりの涼しさ、長袖羽織っています。
昨日がこんなだったらさぞや楽だったろうに…


2006年のオーストリアの続きになりますが - 2006.06.20 Tue

前の日記が余りに長くなったので、ウィーン以降をこちらに取り敢えずの形で移動。
相変わらず、写真はちゃんぽんです(携帯、デジカメ、使い捨てカメラ)。

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2006年6月13日

ウィーンへ移動。
まず、すっかり夏になってしまい、冬物は不要に。
駅の隣りにあった筈の郵便局(工事のため、タクシーで移動したほど遠かった)で、トランク1つを冬物で一杯にし、先に日本に送り帰した。

ウィーンはホッとする。

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(この人混みが何であったか思い出せない)
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まだ時間もあるので、Praterに行った。

まずは大観覧車…何度乗っても。

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(Liliputbahn)
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1970年代との比較(ジェットコースター)
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得意顔の娘
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客は1人であっても稼働させてくれる。(この辺りから日本時間は日付が変わる)
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緊張解けて日本食が食べたくなり、天満屋へ。

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写真を発掘してから編集するとして、取り敢えずあるものだけをアップ(性能の悪い携帯写真を、プレビューから何とかしようと試みるも限界あり)。

(Pension Mozart)
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マクドナルドです!
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2006年6月14日

元マネージャー女史を訪ねて、Rosenhügelへ。
パーキンソン病と闘っておられる。
それに伴い、認知症も出ているのだが、私を見るや、他の居住者に向かって、朗々と私の紹介をし、ピアノ(電子キーボード)を弾くように勧め、曲目解説が始まった。。。音楽の力だろうか?
介護士さんたちも吃驚。今朝は朦朧としていたというのに・・と。
英・独・仏でお喋りも止まらない。

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夕方になり、そろそろおいとまを…
急に認知症状態になられてしまった。
介護士さんたちの話によると、そういう日常らしい。
楽しみにしていることがある時と、それが無くなった時と…
心を鬼にして、娘と帰路に着いた。


2006年6月15日

夜、Volksoper で Cárdásfürstin.
昼間は?Liechtenstein博物館でまったり・・だったか・・


2006年6月16日

バーデンへ行ったと思う。
水着を持って。
Operの前からバーデン行きの路面電車が出ているのだが、他の行き方で行ってみたく、南駅から何とかいう列車に乗ったが、着いたところは行きたかったBadenの街から甚だ遠く、歩き疲れて、娘は可哀想なほどだった。

途中で吃驚!!1975年に初めてリサイタルをした会場の、「Haus der Kunst」
前述のマネージャー女史によるもの。
余りの奇遇さに吃驚してしまった。
娘は炎天下を歩いて可哀想だったが、私にとっては「導かれてしまった?」というほど…(過去を思い出せ、と)

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1975年頃のリサイタルの折の「Haus der Kunst」とマネージャ女史
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そうそう、ここにもあります。ベートーヴェンハウスが。
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のんびりお湯に浸って、泳いで、夕方薄暗くなるまで過ごした。
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2006年6月17日

Weber没後30年のクラス会。
演奏途中から私は出席。
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左はAvo Kouyoumdjan(綴りが曖昧)。Weber門下の頃、一緒にコンクールを受け…当時私は既に25歳、Avo氏17歳。私が一位になりましたが二位の彼のリストのソナタは圧巻でした。

1970年代のWeber先生
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一旦ホテルに戻り、娘をピックアップしてホイリゲ(Beethovenhaus Mayer)

後は写真を載せるだけですみません。
可成り端折りました。後で編集に戻りますので・・・

クラス会は、荷造りがあるため一足先に失礼しました。
(写真をご覧になった方の中で支障が出ました場合には即刻削除致します。どうかご連絡をお願い致します)

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2012年5月21日追加アップ
ウィーン時代の友人A.I.氏より、一昨日のノエル・フローレス氏の訃報メールを頂いた。

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ご冥福をお祈り致します。

(こんなところに追記するのもどうか…と躊躇いつつ)
すっかり頭から去っていましたが(大慌てで卒業した身として)、私のウィーン卒業時の所属クラスはフローレス先生でした。

1975年秋からWeber教授に師事したのだが、1976年初めに40代で亡くなられてしまった。
とは言え、それ迄の僅か4ヶ月間、Weber先生のレッスンを私は週に2-3回の割で受け、しかも1回が4-5時間にわたることもあり、何年分もの指導を受けた気すらするほど … … ですから、その後はどうしてよいか何も決断出来ず、悲しみあるのみ、まさに路頭に立たされた思い。クラスを引き継がれた当時アシスタントであったフローレス氏のクラスに(学校から自動的に)属すしかありませんでした。頭の中では、前の年に「モントリオールを受けたらその後ジュリアードに行け」とのWeber先生の言葉はあったものの、色々な問題が絡み、アメリカ行きは不可能。
その年の秋にライグラフ氏にピアノを聴いて頂き、入学の許可は得ていたのですが、条件として「ウィーンを直ぐ卒業すること」と、氏は1ヶ月のうち7~10日しかザルツブルクに滞在しないため、毎日通うこともあるので「ザルツブルクに下宿をすること」でした。
(即刻卒業はしたのですが、下宿は、どこかに書いた通り、最初の2-3ヶ月だけ借りました)




ザ・サウンド・オブ・ミュージックの旅・他 - 2006.06.13 Tue

何年も経ってからの、手帳と記憶とに頼る記載です。

しかも写真※は、当時の私の旧式な携帯電話にささやかに付いた機能。
あとは娘のデジカメから貰ったほんの少々。


※その他、2012年5月になり、漸く2006年の使い捨てカメラで撮った大量の写真を見つけたのですが、とてもスキャンしてアップ出来る量ではなく、少しだけ加えます。

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4年ぶりのオーストリア。(と言っても2002年の前は、1974年から1981年の滞在)


以前から娘が、ザルツブルクへ行ってザ・サウンド・オブ・ミュージックの舞台になった場所を見たい、と言っていた。
私は、と言えば、ライグラフ先生のクラスで学んでいた当時(1977年)ご一緒だったK.I.さんからの年賀状…「ライグラフ先生のレッスンを10年ぶりに受けてきました。感激でした」といった内容が書かれてあり、…そうか…私は30年近くご無沙汰してしまっているではないか!
私も受けに行こう、刺激を受けに!と思い立った。

けれどもレッスンを受ける、となれば、ドイツ語は不充分(すっからかんに忘れた)。

折しも先生が出版されたメトーデのDVDを日本に広める爲、かつての生徒さん方にお渡しするよう(どこからどう連絡が来たのか定かではないが)、私がお預かりすることになった。
春にゲーテのドイツ語講座、それも初級(!)総まとめのクラスを求めて電話をした。
何でも、ZDというクラスがあるそうで、それに出席すると初級レベル全体を網羅出来るとのこと。

出席して吃驚!!
ZDとは、クラスの名前ではなく”Zertifikat Deutsch”の略で、初級終了証明の試験のためのクラスだった……
毎日毎日過去問を解く。し~~~ん、と誰も答えられないと、Frau I の大声が飛んでくる。「あなた方は何のためにお金を払って出席しているの!?」とまで。
いや・・・最年長として鍛えられました。
徐々に参加者が減り(多分、別なクラスに移動したのだろう)、私の隣席は大変回転の速い青年……後で分かったのだが、私の大学の後輩であり、既に演奏活動をされている大変優秀なピアニスト、T.S.さん。
リサイタル、コンチェルト、コンクールを控えておられるのに、毎日出席し(私が挫折した夜のクラスまで!)、授業の受け方が又素晴らしい。授業中に覚えてしまう意気込み。マスターしていることと、復習が必要な箇所をしっかり色別にマークを付けていらした。
隣席同士の作業では、相手がその方で本当に良かった。無駄な時間が一切ないことは勿論、30歳若返らねばならないほどの集中力を要し、「学習する」という手順を思い出すことができた。
いや、彼は「とんでもないオバ(ァ)サンの隣りに座ってしまった」と思われたかもしれないが…

と、その話は又いずれ・・・

ともあれ、レッスンを受けるに必要なドイツ語は何とか思い出すに至ったし、少しは口が回るようにもなった(「し~~~ん」を避ける爲、誰かが答えねばならない。誰も答えないと先生は私の方をご覧になるから答えざるを得なかった…最年長者として…)。




レッスン日と曲目も電話とファクスで決定。
(「それだけか?」と言われた)

そうそう、渡墺の大切な理由のもうひとつ。
没後30年になられるWeber先生(ウィーン)のクラス会が開催される、という連絡が来たことで、渡墺は決定したのだった・・

という訳で、カテゴリを「オーストリア」にすべきか「恩師」にすべきか迷いつつ、一応「恩師」に。
___________________________

2006年6月4日、娘と共にフランクフルト経由でザルツブルク着。

タラップを降り立ったら、6月だというのに雪が降っていた。
あぁ、コートを持ってきて良かった・・・


(写真の整理も悪く、私はオンボロ携帯の「ぴろりろり~~ん」機能、娘はデジカメ。帰国して随分経ってからパソコンに落とした)


まずは直ぐ近くの教会へ。何かミサが行われていた・・・聖霊降臨祭だったか?・・(手書きのメモを探し出さねば!)
同席してから、ミラベルに娘を案内。
ザ・サウンド・オブ・ミュージック撮影当時と全く変わらぬ風景。マリアが子供達と歌いながら走り回る噴水も、像も。
写真はどこだ・・・?

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1979年頃
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もっと今回の写真があったのだが…

そこからSchwarzstrasseに抜け、かつてのモーツァルテウムの入り口。

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そしてザルツァハ川の橋を渡り、旧市街へ。
Getreidegasse(ゲトライデガッセ)へ。
モーツァルト生誕250年で、生家(Mozarts Geburtshaus)は美しく塗装され直し、賑わっていた。

写真も撮ったのだが・・・
思い出した!
私は使い捨てカメラを使っており、その写真がパソコンに入っていないのだった!!

その辺り省略。
下は、一年中売っている「イースターエッグ」の店。
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後で写真を入れて編集します。

運良く、カフェに入っている間に雷雨。
外に出た時には雨も上がっていた。

サッカーの年!
映し出される映像を見るための大スクリーンがあった。

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(その前で戯れる娘)

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_________________________

2006年6月5日

Mönchsbergへエレベータで上がる。遠くアルプスも見える場所。
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(砲台に続く道・その他Hohensalzburgの中)
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マリア・トラップがシスターとして修行をしていた設定の(いや、本当にあるのだが)Stift Nonnberg(ノンベルク修道院)
古い携帯写真ですが・・

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(懺悔室)


1977年、ほんの3ヶ月ほど借りていた下宿の傍に、真っ白なSchloß Leopoldskron(レオポルツクロン城)というお屋敷がある。これが、トラップ家の正面として使われていたもの。
裏側は、全く別な場所にある、現在はモーツァルテウムだかその寮だかになっているSchloss Frohnburg(フローンブルク城)!
今は、というのは、私がザルツブルクに学んでいた頃、ここは確かCarl Orff Institutだった。カール・オルフ(カルミナ・ブラーナで有名な)が創設した。当時、レッスンが終わってウィーンへ戻る列車まで時間があり、Schloss Frohnburgを地図で調べて辿り着いたら「Carl Orff Institut」と書かれていて吃驚してしまったのだった…という記憶。

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この横のHellbrunner Alleは映画の中で、マリアさんバスから降りてギターをゆらしながら小走りに「I have confidence…」を歌いながら通る道。

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そこをもっと街と反対側に進むと、Schloss Hellbrunnとなる。

Hellbrunn(ヘルブルン)のWasserspiel(予測せぬところから水が噴き出してくる)。
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又庭園には、あの「あずまや」を一回り小さくした同じものもある。

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近辺を徒歩と路線バスでぐるりと周り、旧市街に再び戻った。

私が住んでいた近くの道。
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(これももっと撮った筈が見つからず)


夜はMarionettentheater(マリオネット劇場)でZauberflöte鑑賞。娘は食い入るように観ていたが、私は眠気との闘い・・勿体ないことだった。この劇場も又、ザ・サウンド・オブ・ミュージックの「操り人形」の場面に一役買っている。

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その他あれこれ、写真を探してから書きます。

________________________________

2006年6月5日

突然夏の気候になってきた。
パノラマツアーでザルツカンマーグートへ行くことに。
何故なら、トラップ夫妻が結婚式を挙げた教会を観なくては!!

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(湖上にうっすら見えるPfarrkirche St. Wolfgangの1977年に撮ったもの)
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(ちゃんとした写真はもっとある筈)

取り敢えず、携帯で撮ったMondsee湖畔の教会。
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(改装中)

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少し自由時間もあり。

モーツァルトの母親の生家
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レリーフは、モーツァルトの母上と姉上(Nannnerl)



______________________
2006年6月6日

いよいよライグラフ先生のレッスン日。

ずっとピアノにも触れておらず、朝、ホテルの机で指練習。
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本来のモーツァルテウムがアスベストの撤去中のため、ZIBという大きなスーパーの上の階を借り切っている。

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借り切っている、と言っても、流石だ。

各教室には表札(?)まで付いている
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教室にはSteinweyとBösendorferが並んでおり、大学そのもの。
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(何とも図々しい。…現地調達した楽譜が丸見え)
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「又明日も来るか?」と・・・

年末のリサイタルで弾くことになっている、シューマンのCarnaval全曲。
実は依頼があってFantasieOp.17全曲も迷っていることを相談。
余りに多いのだ!他にモーツァルトもある訳で。
先生は「Fantasieは以前聴いたね?」と念を押されるが(いや、どうだったろう?・・・という30年前のいい加減な私の記憶)。

先生のDVDは、予め言われていた部数をしっかり預かりました。


_____________________________

2007年6月7日

又してもZIBへ。
娘は聴講していて「面白い」と言う。まだこの当時はドイツ語会話は殆ど出来なかったのだが、先生のひと言で私の演奏に何か姿を変えるものがある、と・・・
殆どさらっていない曲をレッスンして頂くことに、甚だ躊躇いはあるものの。

「明後日又来なさい」と・・・
あぁ、練習もしていない曲を次々と・・

______________________________

2006年6月8日

記録が無いので、不明・・・
後で他の写真を発掘して埋めます

______________________________

2006年6月9日

練習場所をZIBの中に確保し、モーツァルトのソナタをしっかり1時間練習。
先生も納得くださり、充実したレッスンを受けることが出来た。

レッスンの後、奥様もいらして、Sacherで食事。
あれ?ここはかつてÖsterreichischerhofという場所(ホテルとレストラン)ではなかったか???
30年前も、レッスンが終わると先生が連れてきてくださったものだった。当時、私がサバランを注文するので(いや、オーストリアでは此処しか置いていなかった気が…)、そんなもののどこが美味しいのか、と呆れられたことも記憶している。

奥様とは1981年以来だ。
確か、日本の生徒たちのお母さま方が(私の母も含む)、奥様にいつもお世話になっているお礼、ということでお招きした記憶が。それで、確か私の夫が車でウィーン西駅から空港へお送りしたのだ。
1歳にもならない息子も一緒だった。

これだ!!

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さて・・・レッスン・・・「日曜にも来るか?」
もう無理です。日曜、ということは自宅だし・・・(ザルツカンマーグートのMondseeに近い、もう少し小さな湖、Zellersee湖畔)
「電話しなさい」と言われて、先生ご夫妻と別れた。

娘は、「行った方がいいよ。先生、来て欲しそうだよ。」と鋭いのだが、如何せんもう身体が動かない。

結局翌日は高熱を出し、電話すら出来ずに唸っているだけ。
娘は娘で、1人で街中に出掛け、大勢の男の人に追い掛けられ、怖い思いをした、という。
惨憺たる週末となってしまった。

__________________________
2006年6月12日

ミュンヘンへ。
仙台から派遣でドイツに1年間居られる、やはりライグラフ門下のM.N.さんにお会いするため。

彼女にはいつもお世話になり、感謝の言葉も見つからないほどだ。
1977年春にモーツァルテウムに入学した時にも、手続きの部屋やレッスン室など、ご案内くださった(本来は別な、桐朋出身の新しい留学生の案内役でいらしたのに、私まで便乗してしまった)・・ご本人は確か卒業試験を控えて多忙だったと思うのに。
その年の秋には、ミュンヘンの彼女の下宿で練習をさせてくださった(コンクールのため)。
帰国後も、先生のリサイタルなどが開催される時には、纏め役をして下さり…


この日、ドイツは燃えていた!サッカーに!!

最初、雰囲気の良いビアホールで食事をしていたのだが・・・(M.N.さん)
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(丸い物は、サッカーボールに見立てた花)

娘が「サッカー観戦をしたい」と言い出し、テレビのあるビアガーデンを探して付き合ってくださった。
私たちはお喋りに花を咲かせ、娘はひたすらサッカー・・・

あぁ、他にも写真はあったのだが・・

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後ほど編集いたします。



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プロフィール

奥 千絵子

Author:奥 千絵子
★上の画像は2001年にCDにして約3枚分を収録したものを,2006年に2枚組としてリリースしたCD「樂の音に寄せて」です.『レコード芸術』2007年1月号で「特選盤」として取り上げられました.戸倉新樹教授によるライナーノートは医学生にもお薦めです.その他のCDや著書はWebsite「本館」からお入りください.このブログも「本館」のDIARYです.
★このブログの"Grüß Gott !" (文字化けの場合はGruess Gott!)は墺・南独の時間を問わない挨拶です.Website「本館」のDIARYです.出版CDや著書の詳細は「本館」のメニューからお入りください.
Website「別館」もあります. 著書「ピアノと向きあう」の説明を補うサイトです.よく頂く質問に説明を記載しています.
★上記著書については今井顕 氏によるKINOKUNIYA書評空間WEBLOG を是非ご一読くださいませ.
Auch auf Deutsch schrieb ich…
★【膠原病の記録】余りに医療のカテゴリーがが増えてしまったので目下整理中です.大変複雑な病気の経験が同じ病の方々への参考となりましたら幸いです.
「乳癌と膠原病(皮膚筋炎・多発性筋炎)」「膠原病(退院後)」 ,その他の医療の話(自分以外も含めて)は「医療・病院関係」,に取り敢えず分けました.
平成12.12.12.病院での復帰リサイタルは演奏動画入り記録です。
★恩師のことは55年間を遡り少しずつ記載するつもりです。目下のところはこれだけです.
★コメントも大歓迎です。SPAM防止上、確認後に公開しております。ご理解をお願い致します.
★このブログや大元のサイトへの感想やお問い合わせはservus2008@gmail.com宛に@を半角に直して送信願います.
【BGM】
Robert Stolzメドレー
演奏:東京カンマーコレーゲン 
室内楽アレンジ:奥 千絵子
ショパン:華麗なる大円舞曲Op.18
演奏:奥千絵子 ショパンのワルツは上の画像の2枚組CD「樂の音に寄せて」に入っております.
★Copyrights©1997-2020 Chieko Oku All rights reserved.
制作・著作:奥千絵子
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