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2020-04

解決した「踏んだり蹴ったり」 - 2019.03.06 Wed


「固いサツマイモ」を1本輪切りにして捻った手首も治った。
捻ったのは、「ピアノを弾くこと」で保たれている筋力・腱力、こんなに何ヶ月もピアノから離れれば何か起こすだろう、と過去の何度にもわたる経験から用心していた矢先のこと。
10日間ほどはロキソニンパップを貼っていたが、ふと「ヒマシ油」の存在を思い出し、捻った辺り全体に塗りながらマッサージをしてみたところ、ほぼ完治した。(何故か文字を手書きすると痛むくらいで…如何にパソコンを頼る日々となっているかを反省)
「ヒマシ油」を使ったのは、SNSでそれが如何に優れた存在か述べられていた方があり(検索すれば真っ先に「下剤」としてヒットするが、そうではなく)、半信半疑で使ったのが数ヶ月前。突き指した左第5指に塗りたくったところ1日で治った。今回も湿布をやめて「ヒマシ油」を塗ってはマッサージ、で落ち着いた。
その昔は、我が実家にもご近所の家にも「ヒマシ油」という名前のものは置いてあった。祖母も両親も逝ってしまった今、何に使っていたのかを訊ける人はいないが、きっと特効薬だったのだろう。(現在は「Castor Oil」との英名で売られていることもある)


次。今年は花粉症に罹った、と信じていた鼻水とクシャミ。こんなに続くか?と思うほど。しかも風邪の治りかけのように粘度を増して行く。色も。(相変わらずの内容につき、この辺りはどうかスルーで!)
そのうち、下を向くと右奥歯の歯茎がうずく。一歩歩く度に痛む。鼻と関係あるのでは?と相変わらず疑う私。

そうこうするうち、夫の「食道アカラシア」の1年ぶりの検査に付き添う日。
前日から(これまた相変わらずの内容につき、お嫌な方はどうかスルーで)排尿痛のような…爽健美茶をがぶ飲みして流し出していたが、JRの駅のトイレでいよいよ激痛となる。夫には「頑張ってね」*と一人で出向いてもらい、私は乗ってきたバスに乗って帰宅。何とか爽健美茶(宣伝料を頂いている訳ではありません。カフェインレスなので)をがぶ飲みしてウトウトしながら過ごした。
*これは、夫はキシロカインにアレルギーがあるため、検査は催眠薬を使う。これが又大変効くので、検査後の記憶が遠のく。なので「頑張ってしっかり説明を聞いてね」の意味。
こんなにのんびり過ごしたのに、翌日は悪化!流石に抗菌薬(クラビット)を服用。痛みは半日で治まった。
そう言えば、1月に受診した元主治医から、一度泌尿器科の受診するように勧められつつ、何も異常がなかったのでそのままになった。こういう時こそ受診すべき。早速翌日出向いた。症状は抗菌薬1回のみで可成り改善はしていたが炎症はあり、念のために画像検査も受けた。異常なし。
ステロイドを増やしてみてシェーグレンの諸症状は落ち着いたものの、やはりステロイドを増やせば易感染症は仕方のないこと。私はつい耐性菌を案じて極力飲まず、症状を天秤にかけて頑張るとを話したところ、そういう時は躊躇うことなく服薬を!耐性菌が問題になるのは、だらだらと何週間も何ヶ月も使う時であって、「怪しい!」と思った時にはさっさと使うことが賢いそうだ。3日間は飲むこと。
実に納得が行き、安心して使うことが出来た。
しかも、ずっと続いていたイヤな鼻水も、下を向くと痛む奥歯も落ち着いた!!やはり感染症だったのだろう。
今のところ歯医者にも耳鼻科にも行かずに済んでいる。ただ、鼻水に悩まされていた頃には判別のついた「金木犀」の香りや下駄箱に臭さなど、再度判別が付かなくなった。これは鼻の中が再び干からびたから……に違いない。

更にその受診した日は、病院と目と鼻の先にあるiPhoneの救急処置の店にも出向いた。
長くなるからこれは又。

ともあれ、全て解決!!


涙点プラグ - 2019.02.20 Wed


シェーグレン症候群によるドライアイが酷く、どこの医者でも「あとは涙点プラグしかありませんね」と言われて20年近くが過ぎた。
年明けからお世話になっている眼科でも言われた。
涙点プラグとは、いくらヒアルロン酸や人工涙液を点眼しても直ぐ乾いてしまう目の場合、涙が涙管へ流れて行かないように涙点をシリコン製の小さな栓で蓋をしてしまう手術法。
検索したら、こんな感じのものがヒット。
実際にはとても小さいものだそうですが…

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その後、膠原病全体でかつてお世話になった先生に相談したところ、通える範囲での眼科を探してくださった。
でもなぁ…と躊躇っているうちに、地元の眼科から処方されている薬が無くなりつつあり、受診。
元主治医が、手術をしてくださる先生を探してくださった話をしたところ、「あら、うちでもやっていますよ」と、いとも簡単に仰る……こりゃぁ灯台もと暗し!!
しかも 以前のように涙点に固形物を入れるのではない方法と言われる。かつてのプラグは異物で蓋をするので、どうしてもゴロゴロした感覚を持つ患者さんが多いそうだ。ではどんな方法かというと、涙点に注射針(のようなもの)でゼリーを注入するのだそうだ。ゼリーと言えば、普通は体温で溶けるイメージだが、逆に体温で固まるそうだ。
へ〜〜〜〜〜・・・とぽっかり口が開いたままになってしまった。
自然に徐々に流れて行くこともあるし、冬の乾燥時だけ注入するなど、融通も利くそうだ。
取り敢えずは目下処方されているムコスタ点眼(ムチンの目薬)とヒアルロン酸に人工涙液で春を待ってみる、ということになった。
こうしてパソコンを打っていても、パソコンの位置を可成り下にして、目も半開きのようにして目の表面が空気に直接触れないようにしていれば、辛うじて打てる訳だし。(実は半ば実験かたがた頻繁に打ってみている)
ピアノの譜面台上の楽譜となると、目線は上向きでガバッと目を開いているし、しかも度々の瞬き必至(覚えてしまえば目を閉じて弾けばよいのだが)、初めて読むレベルの曲を避ければ済む事。

うん・・・差し当たっては、そういうつもりで過ごそう!



タイトルも付けられない日々 - 2019.02.19 Tue


シェーグレン症候群は既に1999年から診断名が付いているそうで…。
私の場合は皮膚筋炎・多発性筋炎に合併する二次性シェーグレン症候群らしい。
この類いは寛解と再燃を繰り返す病気で、私の場合も久々に去年あたりから下記サイトの殆ど全部の症状が出ている。
http://www.nanbyou.or.jp/entry/111
本当に不自由を強いられた。
自分の練習の時間は取れず、それでも自分自身が弾いたことのない曲を生徒が持って来るとなれば、64分音符に128分音符、しかも加線何本も付いて臨時記号満載であっても……一応は読む。ほんの数日だけなのだが、目は干上がり、この年末年始は手持ちの人工涙液のみならずクラビット点眼薬、フルメトロン点眼薬にヒアレインなど、適宜使って何とか誤魔化していた・・という話は書いたし、とても良い眼科に出逢った話も書いた。何とか解決が着くだろう。1999年の、眼球が眼瞼の奥深くに入ってしまったような目には至らずに済んだ。万々歳だ!!

それにしても、信濃大町に行く前に何とかしたかった諸症状。血液検査の項目も増やして頂いたが、2月の末までは待ってはおられぬ!もうこれは自己判断でステロイドを増やすしかなかろう!!増やすと言っても元の量がプレドニン換算でたったの2mgなので4mgにしただけ。これが1月末の話。そして様子を見て漸減中。

これが幸いしたかもしれない。2月になって可成り落ち着いた。鼻血も出ない。膀胱炎も起こさない。うたた寝ばかりしているとは言え倦怠感もマシになり、目は新しく処方されたムコスタ点眼がよく合っているようで…唾液も出て食生活は豊かに…体重が!!
夫の消失したWebsiteを、新しくドメイン取得から始めて、ど素人の粗末な物とは言え何とか作り直すことも出来た(とってもしんどかったが…タグ打ちなので…)。数年気になっていることが片付いた。

ここまでなら本当に万々歳なのに、今度は又しても手を痛めた。数年ぶり。
一昨日生徒のレッスンをしていたら、右手の何ということもない6度か7度の和音が掴めない!手が開かないのだ。
もしや前々日に出向いたカーブス(67日ぶりとパソコン表示が出た)がいけなかったか??いやいや、その日は夜に最近再開した指練習のRoutine(リストの「鬼火」も入っている)を何ということもなくこなせた。よ〜〜く思い出してみた。そうだ!前日の「いたたた…」「いたたた…」と呻きながら輪切りにした硬いサツマイモの所為だ!!最後の3つ4つは右手だけで切ることが出来ず、左手で右手を上から押して切っていたのだから・・・しかも研いでいない包丁と相性の悪いまな板と・・・と気付くまで何時間かかったことか。
ヒマシ油を塗りながらマッサージしたり、ロキソニンパップで手首〜腕を湿布するなど試みているところ。
これ以上酷くしたくないので、でも折角3ヶ月ぶりに再開したピアノなので、何とか左手だけでも…とさらう。
ブラームスのアレンジによるJ.S.BachのChaconne、内容は深かろうが、Busoniのアレンジに慣れてしまっていると、何だかチェロの音域だけを弾いているような気がして…
それならアレンジしてしまおう!!・・・と色々頭で音を鳴らしている最中。
ピアノで再現させる頃には右手は治っている気がするのだが。しかも、「左手のための超絶技巧」になって左手を傷めかねない・・・


白内障よりシェーグレン - 2016.02.19 Fri

先日、白内障が進行していることと、シェーグレンで涙がシルマー試験で2mmと3mmしか出ていないことが判明したこと(唾液は膠原病内科で何年か前に検査済み)、私の中では白内障の手術を受けてしまいたいもの、と思っていたのだが…。これは膠原病内科の管轄かもしれない、と診断書をお願いにいつもの地元のかかりつけ医に出向いた。

白内障は、今のところ「カリーユニ」で進行を食い止めていられること、手術は3000人に1人の割で失明するというデータもある、それよりもシェーグレンの涙液不足を涙点プラグを入れることで解決する方が先ではないか、とのアドヴァイスを頂いた。涙点プラグは簡単な手術で取り付けられ、違和感を感じたら外すことも出来るという。
そして、大学病院の主治医に手紙を書いてくださることになった。

薬局でも、一時期「白内障の手術」が流行したが(という単語ではなかった気も…いずれにせよ、外来で簡単に手術が出来るとの謳い文句は記憶している)、やはりリスクはあり、20年以上前から存在する「カリーユニ」の点眼が最近は主流らしい。勿論運転免許の更新に支障が出るようなレベルになれば別だが…と、言われることはどこでも異口同音。

うん、そういうことなのだろう。
今月末、予約受診の折に手紙を持って、相談してくる。

最近、膠原病友の会からも足が遠のき、原因は出向く気力も学ぶ気力も失せているから。
最新の情報をたまには得て来ないと・・と反省中。
シェーグレンも以前は「SjS」と略されたのが、これがスティーブンジョンソン症候群と混乱を来すのか、シェーグレンは単純に「SS」となっている。それすら吃驚!

申請済んでひと眠り - 2015.10.08 Thu

「特定医療費(指定難病)受給者証」の更新手続き。(今は「医療券」とは言わないのだ…何とも仰々しい!)
先日見落とした「診断書の用紙」、無理をお願いしたところ大急ぎで書いて下さり、昨日大学病院の書類受付から「出来ています」と電話があった。9日の金曜が締切なのだ!
手続きに必要な添付書類の数々(世帯主も含めた住民票や納税証明書など)…以前はすぐそこに出張所があったのに閉鎖されてしまった。このところ疲れが溜まって直ぐ行動に起こせない。火曜には口唇ヘルペスが出るなど症状にも出ていた。手持ちのアラセナA軟膏を即刻塗ったので今朝はもうカサブタ。
最寄りJR駅の近くにある出張所など直ぐなのに、車を運転する気力もなく、バスで延々乗って行く気力もなく、座骨神経痛の酷い夫に頼む、という思い遣りに欠けた私。(どのみち、その駅近辺で諸々の用事を足すことがある、と言ってくれたし…)無事に入手、あとは診断書だ。
今朝一番で病院に取りに行くつもりが、先に申請の書類数枚を書き込んで……こんなに頭を使う用紙だったかしら。可成り時間を要してしまった。たった2−3枚の説明書きの、あっちを見たりこっちを見たり裏返したり、同じ所を堂々巡り。これはいよいよ認知症かも!!(以前は数分でチャチャっと書き込めた筈。これは毎年書式が同じだったからに違いない!納税証明も、以前は確定申告書のコピーで済んだし…と言い訳を考える
無事に書き終え(正しくは「埋め終え」)、今日は夫が1日仕事が故、自分で車を運転して全て済ませに回った。病院で診断書を受け取り、そのまま保健センターへ。夫の保険証のコピーが足りなかったが、後日郵送でOKとのこと。
済ませて万歳!これで今度こそ(というのは2月の日記のことがあったから)1年安心出来るか??

帰りに、地元の整形外科へ寄った。
もう12時だというのに患者さんで溢れていた。12時半近くなってしまったので、先に牽引を受けさせてもらい、迷ったが、夏の間の(その後の)あれこれを報告した方がよかろう、と受診してきた。
下のスーパーで買い物をして帰宅。

昼食を摂って、あーーー、疲れた!!とベッドに横になったが最後、大爆睡。インターフォンが鳴り、「誰よ、こんな夜中に・・・」と一瞬寝惚けるほど。時計を見たら、まだ午後4時だった。

「今日こそ譜読み!」と夜になってピアノに向かったのも束の間。30分でギブアップ。情けない日々になったものだ。
眼鏡を作り替えるか…それ以前に眼科で検査を受ける時期だ…(どこかに眼鏡そのものの絵文字があった筈が、見つからない

区の申請、及び1−2月の医療費返還手続き終わり - 2015.02.13 Fri

物置の整理による頭のパズル状態から解放されても、疲れは留まるところを知らず。
それでも頑張って、夏からのあれこれ(仕事も含む)で読みそびれていた受給に関する説明を一通り読んだ。
夏の申請時に添えられていた説明(難病指定の疾患が増えたことや、名称変更の疾患も多くあり、一斉に医師が書類作成困難の為…といった内容の)や、膠原病友の会の会報に掲載されている厚生労働省による説明。それでも何だかしっくり来ない。しっくり来ない時は、手続きをさっさと済ませてしまいたく、夫に運転を頼み(自分で運転するには頭が疲れすぎ)、区役所へ出向いた。
今までの丸都マーク(「都」が丸で囲まれていた印)の付いた「医療券」が、「特定医療費(指定難病)受給者証」という名前の大きなカードになったことも確かめることが出来、受診の度に「自己負担上限額管理票」も持ち歩いて会計時に提出することも分かった。
区の補助金は、折しも丁度振り込まれる日で、親切にも「今日のうちに通帳に振り込まれます」という。
そのまま大学病院と薬局の手続きも済ませ(公費負担者番号の変更や、1月分の医療費返還のための書類を送ってもらう。2月分はその場で返却された)、ほっと一安心・・・
流石に病院は把握しきっていたが、薬局は随分手間取った。
それにしてもなぁ…据置期間の29年までは、この大きな書類を診察券と共に持ち歩くのか…

異様な空模様。

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帰宅してメールを何通か送るつもりがパソコンの前で居眠り。ベッドに移動して爆睡し、目覚めたら夜の8時近かった。

今日は夫に言わせると「嵐の前の静けさかも」だそうだ、明日から解体が始まる。物置はまだしも、広い面積のコンクリートの撤去が・・・

夜は一日早いValentine Dayで、娘が作ったチョコレートケーキのご相伴に与った。

やっと届いた公費関係書類 - 2015.02.12 Thu

秋から物置の解体に関する労働が加わり、さりとて1時間半から2時間程度のものだったけれど、その分睡眠時間が増えたのか、何だかあっと言う間に日々が飛び去って行った。
そのため、申請が遅れたのもいけないが、仕方がない。仕事を含めた沢山のことがパーフェクトに同時進行が出来るなら公費など必要ない訳で。
今も自分自身のための練習は全く出来ない状態。生徒に示す「手指の形・動きを含めた演奏手段や表現の提案」が唯一私の練習時間となっている…(Gott sei Dank…幸いその位のレベルの手指で示した方が伝わる事実もある)

やっと「難病の医療費助成制度の経過措置のご案内」というものが届いた。
分厚い封書で、一体どれが何なのかを見るのもしんどい!
「特定医療費(指定難病)受給者証」という用紙は、今まで持ち歩いていた半分ほどの大きさの用紙(医療券)に該当するものなのか?それと「自己負担上限額管理票」という冊子があり、それは受診の度に持ち歩くのか??
こういう書類を読むのは大の苦手で、明日にする。
つい先日、浜松で配布したプリントに1999~2000年の「病気の所為か、ステロイドの副作用か」と書いた「思考力の低下」は、当時のような酷いものは治ったと言えるほどに回復はしたものの、・・・老化??

ふと、某SNSに膠原病や皮膚筋炎・多発性筋炎のコミュニティがあったことを思い出し、何年ぶりかで開いてみたところ、私だけではなく、遙かに若い(と思しき)方々であっても「分からない」「分からない」「分からない」と不平を述べておられる。
ここに質問の書き込みをしてみようか・・・・・
物置の中身の整理優先で、封も切っていなかった「膠原病友の会」の冊子も読んでみないといけない。きっと何か載っている筈。

医療券が届いていなかったが故に5桁額の薬代を支払ったり、病院の会計を払ったりしてきたものは戻ってくるのか、それを記入する欄もあるみたいだが、もう一体何が何だか…の状態。

どうも厚労省の手落ちのようです。
私のように寛解状態にあってもこんなですから、省庁は相手が患者であることを(それも、一生完治は無いという人達を相手にしていることを)頭に置いて物事を進めて欲しいものです。

あぁ、気が重い!!!

点眼薬 - 2013.03.04 Mon

近所のとても親切且つ判断の鋭い眼科で処方されていた点眼薬、シェーグレン用の「ジクアス3%」と「ヒアレイン0.3%」も、膠原病内科から公費負担(自己負担ゼロ)で処方して頂けることになった。「タリビット」と「フルメトロン」と共に。
膠原病内科の先生に感謝。

不思議な制度で、シェーグレンは同じ大学病院内の眼科であっても、点眼薬は国保扱いのみ。
そもそもが、ステロイドの副作用である「白内障」の定期的な検査でかかり始めた。なので白内障の管轄外の点眼薬は全て3割負担。
かと思えば、当初皮膚科で公費負担だった薬(塗り薬は勿論、アレグラなど抗アレルギー剤)も、内科では3割負担。

言われるままに支払う人なのだが、謎が多い・・


丁度11年 - 2009.08.07 Fri

あの原因不明の甚だしい不調から11年。
さっぱり訳も分からず、すっかり無くなった握力に、全身の脱力感・倦怠感と・・・
どこの病院へ行っても「気の所為」扱いされ、困り果てながら見つけた大きなしこりで、「これが悪さの元凶!」と、悪さの大元を見出した気になり、逆にホッとした位だった。
乳癌は切ってしまえばよいけれど、ここ迄の不調とあっては転移しているのでは?等々…これで最後かもしれない、だから神様は「リサイタルをせよ」と突然思い立たせて下さったのかも分からない……
という1998年8月7日だった。
曲目を変更することもなく辛い数週間の準備だったし、今になれば、何とよく頑張ったものだ、自分にご褒美を与えたい程、と思う。けれども周囲はどれだけハラハラしていたであろう、…等々想いは巡る。

その後の経過・・・乳癌の転移は無かったけれど、膠原病…名前だけは知っていたけれど、皮膚筋炎や多発性筋炎、又、シェーグレンも初めて目にする単語だった。
そして、その治療開始からも10年が経つ。


今日は、生徒の一人が会場練習を聴いて欲しい、というので久々に外出。
余程空に飢えていると見え、解放感と共に外に出れば、吸い込まれるが如く空ばかり撮ってしまう。


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このところパソコン作業ばかりで、疲れれば「テレビの前のうたた寝」。

終わってのお喋りと食事も至福の時だった。

何とか現状維持の骨粗鬆症 - 2009.08.03 Mon

タイトルは、ステロイドによる骨粗鬆症のことです。

既に何度も(しつこく)書いていますが、元の病気と天秤に掛ければ、当然ステロイド使用が勝ちます。使わなければ今頃どうなっていたか・・・

数年前に整形外科の主治医が変更になり、「骨」の専門医です。

ずっと使っていた骨代謝改善薬のビスホスホネート製剤(ボナロン、フォサマック等)は、使いすぎていると逆に骨吸収を妨げる働きがある、ということで、薬の種類も時々変えた方が良いとのこと。
私の場合は更に、それに関係するALPという値が大変低いそうです。

5月から、選択的エストロゲン受容体モジュレーター(エビスタ)という薬に変更になりました。


今日は年に1回の、腰椎と大腿骨の骨塩定量を量る検査(骨密度を診るレントゲン)。

勿論標準には届きませんが、量的にはこの数年、それらの薬のお蔭で何とか横ばいを保っています。有難いことです!!
(貰った結果によると、腰椎は80代前半並み、大腿骨は70代後半並みのようです)


しかし、今服用しているエビスタは、どうやら血栓を作り易いらしい。
「飛行機に長時間乗ることがあったら、3日前から服用を止めてください。所謂エコノミー症候群になり易くなっていますからね。」と言われました。
えぇ~~~っ!?そうとは知らず、飲んで乗りました。
私の場合、血液もドロドロらしいので怖いものがあります。


先生に「ネット、やりますよね?」と問われ、何かと思えば、「日本骨代謝学会というのがあって、そこから骨代謝マーカーに飛ぶと、私の書いた文章が出ますから、説明を読んでください」と。
有難いことであります!
私は左から右、右から左、の人。しかも説明を聴いても、「何が分からないのか」が分からないので、質問も出来ない!ネット社会に感謝であります。
何度でも読み返せます。不明点は更に検索出来ます。

こんな時代になるとは・・・
パソコンを勧めてくれた友人達に、又しても心から感謝!!


リハビリの道具 - 2008.07.23 Wed

これは現在の日付で記入します。

退院後も引き続きリハビリを行っていました。
週1回PT(理学療法)とOT(作業療法)に通い,様子を見ながら次の課題を考えてくださっては宿題が出ていたのです。

入院中から退院後の生活を考えてくださり,「徒歩」より「自転車」の方が負荷がかからないですから,PTでは毎日エアロバイクを漕ぐことから始めていました。
それと退院すれば階段の昇降があるので,持久力を鍛える為にほんの4-5段のリハビリ用の階段をゆっくりゆっくり一段ずつ昇降反復。この「ゆっくり」が大切。速く,は持久力のトレーニングにならない!4-5段で持久力を付ければ駅の階段も昇降出来る,ということの様です。

退院後,階段は本物があるとして,エアロバイクを購入。確か通販で。
病院のものに比べたら機能は甚だ少ないながら,耳たぶに何か先端を挟むと脈拍を音で出してくれる,そして負荷を自動的に変えてくれる,等は付いていた気がします(「気がします」は,これを書いている2008年現在は物置に収納してある為に確認出来ない)。200回を何分かけて,とか,そういった類の設定です。あとは,駅まで15分かけて歩くことを考え,20分連続で漕げるように,等。

それから腕力強化。
瞬発力よりも持久力に問題があった為に,リストバンドを巻いて,ゆっくり(又してもこれが大切!)肩まで上げ下げ。更に水平から上まで上げ下げ。
FSCN5270:2
手前が1kg,向こうのが500g,最初は500gから始め,次が1kg。あとは組み合わせで1.5kg。
病院には2kg, 2.5kg, 3kgなどもありましたが,こうなるとリハビリではなく,スポーツ選手の筋トレ??(よく,怪我をした力士が来ていましたっけ・・・)


指の力は以前もアップしましたが・・
(クリックするとkg が見えると思います)
FSCN5272:2
この中では緑が一番軽いのですが(指1本ずつ分かれています),入院中はこれよりも更に軽い赤い色から始めました。

その他腕にも脚にも使ったベルト。
テーブルの脚に回して腕に通して引っ張ったり,脚で引っ張ったり,使い方は工夫次第で活用。
FSCN5274:2
たまたま結んであったのがこの色だったのですが,他にも黄,青,黒を持っていた筈……

あとは腹筋運動と背筋運動。…と書くと大袈裟ですが,横になって頭を上げ,お臍を見るだけ。それと腰をほんの少し浮かすだけ,というレヴェルのものです。5回くらいから始めましたが,1年後には手を使わずに起き上がれるところまで行きました。


これらを一通りこなすと軽く1時間は超えてしまうので,勿論何回かに分散させて行うのですけれども……実際はサボりがちでした。・・・とは言え,今になって思い返してみれば,よくやっていたものです




2001年8月6日以降、2006年迄 - 2006.08.31 Thu

2001年8月6日以降

この辺りは、それまでの記載を止めてしまっている。丁度それ用の一覧表の用紙が切れたこともあると思う。
ごく普通の生活に近く、夏~秋は、生徒たちの大小のコンクールに備えてレッスンとリハーサル、そして審査の日々。
手帳に記してある予定しか参考にならない。

又、少し様子観察で、という胸のしこりも再発ではないと思いつつも気になり、リサイタルを開こう、と予約してあった9月13日の「風のホール」は、CDの収録に使う事にした。
万が一、キャンセルしなくてはならない事が起きた時を考慮したのだ。

病院のレストランでリクエストに応じて膨らんだ、いつでも8割程度なら弾ける状態になっていた曲の数々や、これ以上年齢を重ねては演奏不可能になるのではないか?と感じていた数々を収録しておくことにしたのだった。

一回収録して欲が出て、更に10月、11月と計3回で、CD約3枚分になりそうな曲数を片っ端から録って頂いた。

これは私の意志ではない、大きな力に動かされての事であった気がする。

本来なら編集に取り掛かる事が出来る筈の翌年2002年夏には、庭伝いに住んでいる母屋の義母が脳梗塞(診断ミスで処置が遅れた)で亡くなり、晩秋には義父が出血性胃潰瘍を起こし入院、年末には母屋が全焼する、という諸難事に見舞われてしまった。
その翌年2003年には、折角住める様に整えた焼け残りに凄まじいシロアリの被害が見つかり、建て替えるしか選択肢は無くなった。
私の実家は当時まだ存在し、母が一人で住むには広すぎる上、その母も身体が可成り不自由になっていた。1階には母の2LDLの他、亡き父の20畳アトリエもあり、応接室兼スタジオも20畳。2階には当時の我々家族全員のスペースもあったのだが、義父が其処に住む意志を持ってくれなくては一人残す訳にも行かない。
結局2003年は業者選びと設計、2004年は建築と引っ越し、私の母も向かいのマンションに引っ越し、すっかりバタバタと過ぎてしまった。
母がウィーンを訪れてくれた折、モーツァルトの貧民墓地で拾って埋めたマロニエの木も、大きく育って枝葉を広げ、季節には花を咲かせていたのが甚だ心残りだったのだが・・・

マロニエの木(縮)

そして思い立った2006年、その3日かけた収録を2枚組のCD「樂の音に寄せて」としてリリースする運びと相成った。
ご助力下さった方々には言葉も見つからないほど感謝している。

一旦ここで区切ろう。

以降は、既に記した日記に順番も繋がると思う。



友人達へのメッセージより「医療」 - 2004.09.12 Sun

医療
 
投稿日時 : 2004/09/12 14:15
書き込み頻繁、お許しを。

10日に、「膠原病友の会」の座談会がありました。
都立駒込の猪熊茂子先生を囲んで、患者5名(全身性エリテマトーデス2名、シェーグレン症候群1名、全身性硬化症1名、皮膚筋炎1名)で、会の東京支部30周年を記念しての冊子に載せる、という対談でした。
私は少数派である皮膚筋炎患者として依頼を受けました。

猪熊先生というのは、友の会の例会で、大体毎回講演や質疑応答をなさる。そして最後に必ず「自分はこうした場を与えられて、患者さんから逆に学ばせて頂いているのです」と挨拶なさる素晴らしい先生です。
当日の話を少し書いてみたいと思います。膠原病のみならず、他の病気に共通している事も多々ありますので。

当日は一体何を喋ったらよいのか、本音を吐いてよいのか、戸惑いながらの出席でした。
「30周年」ということで、最初は病歴40年の会長さんが先生と対談なさっていたのですが…。そして沢山のMDやら会場で借りた録音機材などを皆、チラチラ気にしていたのですが…。一人ずつ自己紹介かたがた病歴を述べたりしているうちに、(皆さん病気についてよく勉強されていますから…友の会を通じて、本やネットを通じて)疑問点や不満の類がぞろぞろぼろぼろ。先生まで、「これ、後でカットね」など頻回に仰って本心あれこれ。で、患者側も、病院や先生の実名を出してあぁだのこぅだの。
掲載を少々気にして最初は中途半端、会長さんが「まぁ、まずは本音を出して頂いて、あとで校正・訂正して編集して貰えば」という事になったのです。結果は、本来1時から3時までだった計画が、部屋を追い出される5時まで延々続きました。だって皆、鬱憤抱えて過ごしていますから、止めどなく爆発・暴露。
テープおこしするだけだって大変なのに、あれだけの本音をどうやって、あちこちへ差し障りの無い様に編集するのか、という程。編集する方々だって膠原病の患者さんですから、その負荷たるや如何に??

地方、地域によっては余りに遅れた医療機関もあることも分かり、こうして膠原病治療の素晴らしい存在の先生を目の前にガンガン文句を言っている我々は図々しかったかも。

先生のお話、余り書いてはいけないのでしょうが、先生曰く、(口癖の如く)「患者は病院に出向いたら『黙って座ればピタリと当たる』なんて事はあり得ない。何でも訊きたい事や症状など、何でも喋るべき。」「研修医にもいつも『患者が医者の前で全部を喋れる様になったら本物の臨床医です』と指導している。」などなど。
でも、「患者が『あの医者は…』と言うのと同じに、我々の間では『あの患者は…』という話が出るのも事実」とも。
あと、最近「セカンドオピニオン外来」を設けた病院が続出し、不満に思う事があったらどんどん利用すれば良い、という事も言われました。一万円で一時間。紹介状さえ貰えれば、あちこちどこでも行って構わないのだとか。でも猪熊先生は、金銭的にきつい場合は、一万円払うよりだったら、個人的に三割負担で普通に受診してしまえばよい、とか。猪熊先生のところにも年一回、とか何ヶ月おき、とか適当に自分で判断して通って来る他の病院の患者さんも沢山あるそうな。
難病の認定が最近都知事の不理解で9月に一斉になったのですが、その書類も、医師は何百と一人で抱える場合もなるので、せめて住所と名前くらいは書いて来て欲しい旨。(私は、全て医師の文字でないといけないのだ、と思い込んでいました。)又、違っていたら何度でも訂正、加筆に持って来るべきだ、とも。

遠くても良い医者にかかった方が絶対得。良い医師にかかれば緩解は必ず来る。ただ、緩解が先か、寿命が先か、という事もある、と。
患者も、どこまでを望むのか、はっきり言うべき。全体から判断して、一番大切なところから順位をつける事。命の温存なのか?ADLからQOLに持って行ければ最高なのか?全く元通り、というのは稀なのだから。

貴重な時間でしたが、猪熊先生の様な先生は本当に稀!!私など、皮膚症状は全く消えて、筋力低下やら目の乾き、唾液不足、酷い倦怠感等々、他覚的には見えない症状ばかりなのに、いつまでも皮膚科が主治医。それも入院中に「この先生になら安心して診て頂ける」と思った医師ではなく、心ない言葉を多く発する医師にはいい加減我慢の限界も越え、かと言って紹介状を書いて下さる先生とも思えず、今は膠原病内科の先生が自らが私の愚痴を聞いて、「僕がしっかりついていますから大丈夫」と仰って、実際にはメインになり診察をして下さっています。でも一度普通に猪熊先生のところへ出向くべきかもしれない、と思って帰宅した次第です。※

どんな病気にせよ同じでは??
皆さまや、そして周りに悩んでおられる方がいらっしゃって、参考になれば幸いです。

※その後、色々な先生方との出逢いもあり(膠原病に限らず)、図々しい、嫌われても構わない、と開き直っての患者となっております。

日々の記録のみ - 2001.08.05 Sun

6月28日
婦人科の検診。
リハビリ。
その後レストランでピアノ。
夜生徒一人レッスン。

6月29日
夜一人だけレッスン。

6月30日
朝一人レッスン。
2~4時、武蔵野公会堂に於ける「乳癌はこわくない」の講演会に出席。
複数の病院に通うことが困難で、1999年の入院時から診て頂いている杏林の松田先生の講演。

7月1日
午後2人レッスン。

7月2日
習志野での演奏の為の合わせ。

7月3日
眼科と整形外科受診。

7月4日
退院後、初めて昭和大豊洲の冨永健先生の受診。
帰りは以前の様に銀座一丁目で下車して、以前の様にいくつかの店に寄った。
炎天下の為、すっかりバテてしまった。

7月5日
やはり豊洲は遠かったし、紫外線の中の銀ブラは応えた。生徒を休みにして貰った。

7月6日
コンクールを控えた高校生のレッスン。

7月8日
習志野での室内楽本番。

7月10日
皮膚科と膠原病内科。
長い待ち時間に吉祥寺へ出て、お中元を4箇所に送付依頼。

7月11日
2人レッスン。

7月12日
自分のリハビリは休み、同院救急に娘を連れて行った。手の痺れが全く取れなくなってしまった、という。一晩を机でうつ伏せになって眠ってしまったそうで、その所為らしい。(リハビリ棟は目と鼻の先)

7月13日
午前、午後、夜と一人ずつレッスン。それぞれにコンクールを控えている。

7月14日
炎天下、パソコンの講座へ。
昼の薬一式飲み忘れても支障なし。

7月15日
生徒たちの勉強会兼リハーサル。

7月16日
流石に疲れが出てきて、1日ぐたぐたと過ごした。

7月17日
生徒一人、コンクールの為のレッスン。

7月18日
生徒2人、コンクールの為のレッスン。
コンクール、と一口に言っても、今は様々な種類があり、過酷な審査を強いられるものは勿論あるが、アマチュアでも参加出来るものや年齢に制限の無いもの、又、曲を自由に選べるものもある。
生徒それぞれ個性やレベルに応じて場数を踏めるのが有難い。賞を頂けば励みにもなる上、それは経歴として一生消えることもない。

7月19日
娘を整形外科に送り込み(手の痺れ)、私はリハビリと婦人科と皮膚科、その後レストランへ。
婦人科ではノルバデックスの検査を受けた。

7月20日
生徒一人レッスン。

7月21日
午前、午後、夜、一人ずつレッスン(とは言っても、計6時間以上)

7月22日
生徒一人レッスン。

7月24日
2つの科を受診した後、レストランでピアノを弾いていたら3時間経ってしまった。
病院の事務長にお会いし、理事長を紹介された。

帰宅して、パソコンで“Can you celebrate?”を打ち込んだ。

7月27日
一人レッスン。

7月28日
Finaleの講座で、打ち込んだ楽譜で記譜の不明点を質問。
その後さん宅へ。

7月29日
2人レッスン

7月31日
2つの科の受診の間、11時から3時まで待ち時間。レストランのピアノで過ごした。

8月2日
リハビリ科と乳腺科受診。
ノルヴァデックス服用(乳癌の、ホルモン系の抗癌剤)を再開することになった。
「医者は資料はいくらでも提供するが、決断は本人」と言われた。それが出来れば苦労は無いのだが、私自身が納得して服用しなければ効果も無かろう。

夜レッスン一人。

8月3日
三人レッスン。いずれもコンクール用に。1時から6時半までぶっ通し。

8月5日
勉強会。
延べ5人のコンクール受験者のリハーサルをまず行い、その後は基礎を子供も大人も一緒に確認。
練習方法に関して、パソコンで打ち出した6ページを配布。
この6ページの通りに練習が出来れば、人前でも成功するだろうし、何よりも人間として一つのことを通じて強くなることが出来る。
決して小難しいことを書いてはいない。当然のことだけ順を追って書いただけ。これらがいい加減になるので、数直線をマイナスに歩んで、ゼロも通り越し、ゼロに戻すのも大変なことになってしまうのだ!!
文明の利器は何と有難いことだろう?どんなに速く打っても判読可能な文字が打ち出されるのだから。手書きではこうは行かない。

弾き方が定まらない生徒には、根気強くいくつも例を弾いて示して、どれが自分にとって自然に感じるかを聴き取って貰う。
と同時に私自身、それらを通じて自分の弾き方が決まって行く。
まさに「育児は育自」「子は鏡」と同じ事が言えよう。

パソコンで楽譜を書く日々・等 - 2001.06.26 Tue

5月21日~
パソコンメールの便利さ。
しかもパソコンの不明点は、メールにて友人達に指導を仰ぎ、感謝感謝。

又、Finaleは使うほどに慣れ、鍵盤キーボードと繋げて記譜。毎週土曜に宮地楽器の講座に自分のパソコンを持って出向き、不明点を教わる形になりつつある。
今までの編曲を読み易い様に清書したり、控えているアレンジを打ったりしている。

5月29日
複数の科を待つ間と、雨が上がるのを待つ間、持参したパソコンで楽譜の手直し(臨時記号が全部♭で表示されるので、それらを直したり、字余り的に入る細かい音符・連符、スラーその他の記号などをクリックで入れる作業)。
雨が上がり、三鷹の風のホールへ予約の確認へ(10月2日にリサイタルをしたく)。
電車とバスを乗り継ぎ帰宅。バスを降りたら生憎の豪雨。パソコンが濡れない様に疾走した。

余りにFinaleに熱中した所為か、夜風呂に入っていたら、壁に楽譜がちらついて見えることに気付いた。…気の所為だろう、と思ったが確かに見える。残像は白黒反転するのではないか?そのまま黒くチラチラする。※1,2

※1 この楽譜のチラチラは、パソコンに於いて目はパソコンを凝視、楽譜はパソコンの画面上をスクロールして流れるので、残像(?)もチラチラとスクロール状態。16分音符を多く打った後には16分音符が、8分音符の三連符を多く打った後にはそれらが、という様に出る。
その後眼科で相談したが埒が明かず、どの科を受診しても「幻覚扱い」されてしまう。
実際に見えている証拠は、パソコンの距離に相当する平面ではパソコン画面の楽譜のサイズで、そして少し離れた壁を見ればパソコンの楽譜より大きく、もっと遠くを見れば更に大きく比例して見えるのだから、視神経に焼き付いて脳が連動してしまっているのではないか?と思う。
この様な類の証明出来ない(データとして)症状が常に困りもの。
※2 結局この楽譜の像は、楽譜書きを止めない限り続く。しかもそれのみならず、5-6年後には、とうとう紙の楽譜を見た後にも同じ現象が起きる様になってしまった。この場合は楽譜は固定され、自分の目がスクロール状態にて読む訳で、やはりチラチラと移動して動く。
シェーグレン症候群も持っているらしいので、体液不足と何か関係があるのでは?と思ってしまう。神経の中のしくみを知りたい。

6月7日
この辺りは倦怠感で、暇さえあれば寝てばかりいる。

6月8日
午後3時間、夜3時間生徒を教える。
夜のインターフォン、爆睡にて聞こえず。

6月9日
Finaleの講座の後さん宅へ。自分のパソコンを持参して習う様にしているので、打った楽譜を見てもらう。(お子さんたちに見せびらかした??)

6月10日
回転性の眩暈。メリスロン12mgを2回服用。
既に家を出たであろう方々を思い、勉強会までに根性で治した。

6月11日
パソコンで「こうもり」のオルロフスキーのオケ部分を室内楽用にアレンジして打ったのだが、何を触ったのか、消失してしまい、再度打ち直し。夜中の3時になってしまった。それから風呂に入り、ピアノをさらって朝5時就寝。

6月12日
リハビリ、皮膚科、第1内科。
その後レストランでピアノも弾いた。

6月14日
リストの超絶技巧練習曲「鬼火」をさらってみる。
秋までに何とかなるかも分からない。

6月15日
骨シンチの造影剤注射→乳腺科受診「あぁ、あるねぇ」
…又か??と思う。→超音波→腫瘍センター→食事とピアノをレストランで→骨シンチ

又乳癌かも分からない、と思うとあれこれのやり残しに焦りを感じる。

生徒達にも、もっとピアノそのものも、ピアノを通じて人間としての何かも伝えねばならない、と思う。

6月16日
生徒の出来は甚だ悪く、(以下略)

6月17日
パソコンで、Robert Stolzのメドレーの清書を終わらせた。

~~この辺りはパソコンでの楽譜書きと、生徒のレッスンは1日平均に換算すると2-3時間。

6月22日
乳腺の結果。
当面は観察状態。
レストランへ行き、閉鎖のことを聞かされた。


6月24日
母校の友人達で作っていたサイトから、私の書き込みを抜粋
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投稿日時 : 2001/06/25 12:16
昨日は半年ぶりに教会へ行きました。

 1年程前、近くの久我山宣教会での音楽伝道礼拝の案内に吸い寄せられる様に行ったのがきっかけ。
 昨日も又、音楽伝道礼拝の案内状を頂き、娘と共に行って来ました。水野源三氏の詩によるによる讃美歌を聖歌隊員が歌いました。水野源三氏は、御存知の方も多いと思いますが、幼少の頃、赤痢の高熱から脳性麻痺を起こし、まばたき以外の全ての自由を奪われました。そして、"あいうえお"の五十音表を母親がひとつずつ指で指し、自分の望む文字が来るとまばたきをする、という風に日常の意志を伝えていたのです。そうして神を賛美する多くの詩が生まれました。信じられない様な状況の中で、感謝ばかりの言葉。涙無くしては聴く事が出来ません。うろ覚えですが、ローマ人への手紙だったか??"患難が忍耐を生み、忍耐が錬逹を生み、錬逹が希望を生み. . . ." という(違ったらご免なさい)聖句を思い出さずにはいられず、昨日は希望を沢山頂きました。
 それから、この教会の牧師、中原先生は、白血病と闘い乍らの生活です。平日は長野で療養されておられます。膠原病にも罹った経験がおありだそうで、奥様の言葉を借りると "病気のデパート" だとか。にも拘わらずとっても明るくて、説教は机も椅子も使わず聖書を手に持ち立ったまま。帰り際、"お元気そうで. . . . . " とお互い言いかけて苦笑し乍ら後の言葉がすぐ出ませんでした。お互い、元気そうに見える為の日頃の努力が解ってしまうからでした。私などは先生に比べれば、とてもおこがましくて言えたものではありませんが、暇さえあれば寝て、生徒達にはさとられぬ様に症状に応じて薬に管理をさせて、何とかやりたい仕事や練習も最低限は手をつけたくて. . . . .の生活。 中原先生は全くの現役(?)の闘病生活を送り乍らの伝道、体調管理の大変さは如何ばかり、と想像に余りあります。にも拘わらず、昨日も沢山の事を教えて下さいました。この事は又、別の機会にしますけれど。エネルギーを沢山頂いて帰って来ました。

 では又。

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帰宅して2人生徒のレッスン(4時間近く)

6月26日
3つの科を受診。
プレドニンが5ミリに減るかも分からない。



パソコン購入へ - 2001.05.20 Sun

4月22日
3人レッスン(11時~5時)

4月26日
リハビリと皮膚科。自転車で往復。
レストランでピアノを弾き、その後お二人の患者さんとお喋り。

帰宅後は延々昼寝。(流石に自転車の往復は応えた)

4月27日
2人レッスン

4月28日
宮地楽器にてFinaleの講座。
ソフト(Finale2001)を先に購入。
いよいよ自宅にパソコンが無いと不便さを感じる。

4月29日
3人レッスン(1時半~6時半)

5月1日
2つの科の後レストランでピアノ。

5月2日
整形外科受診、レストランで又ピアノ。
その後吉祥寺に出て、T-ZONEにてパソコン一式を購入。
先日から眺め渡してはいたのだが、結局マック専門の店員に意見を求める。
りんご型のiBookが気になっていたのだが、大切なデータが入ったまま持ち歩くとなるとPowerBook G4がお薦めらしい。
「メールの送受が出来て、ネット検索が出来て、Finaleで楽譜が書ければよいです。」と希望を言ったところ、必要なものをポンポンポンと揃えてくれた。
この店員さん、ご両親が音楽家で父上が音大教授とか…やはりFinaleの使い方を親御さんに教えている、という何とも頼もしい方!!名札から、その父上という方は私のウィーン時代の恩師の先輩ではないか?と推察。そのうちに訊いてみよう。
パソコン本体、AirMac(マックの無線LAN)、プリンタ、Office。
丁度店の前にタクシー乗り場があり、そこ迄は店員さんが全部運んでくれて、タクシーで帰宅。

早速マニュアル片手に、パソコンを裏返してバッテリーを外し、全てのネジを外し、裏面を全部外してAirMacカードを取り付けてみる。5-6ページの説明、一語たりとも読み逃さないように…

5月3日~6日
暇さえあればパソコンに向かって設定。
分からないことが出る度にさんに電話をして教えて貰う。
ネット設定も遠隔操作。

5月10日
リハビリ、皮膚科
その後、心臓の手術をされたお二人とレストランでお喋り(ピアノも)。

5月12日
Finaleの受講

5月13日
朝、プリント作成、楽譜のコピー、午後は実家に自転車で出向いて、3時から6時まで生徒たちの勉強会。
「歌って弾く」という事が苦手な生徒たちなので、まずは声に出して歌うことから始める。「ロンドンデリー」の歌の譜面にて歌心を持って歌う試み。まずは歌詞を心深く感じること。指揮(というよりは私のリード)に合わせてテンポを揺らす試み。同時に伴奏者も順次交代。今度はピアノ譜にて「歌った様に」弾いてみる。
可成りの進歩。
これが諸作品のカンタービレの部分に生かされれば成功なのだが……

5月14日
手書きにて手紙2通。下書きを何度もして疲れた。

5月15日
さんが我が家まで出向き、AirMacやプリンタの接続をしてくれた。マニュアルを見ながら下線を引きつつ、ふんふん・・・と頷きながら、いとも楽々こなしてくれるのが有難さを通り越して、超人の業を見ている気がした。
円盤(CDのこと)をインストール(という単語も初めて知った)しては、次々操作をし、Prestissimoでキーを打つ彼女の姿が魔法使いに見えた。

感謝感激!!

5月16日
新しい生徒一人来訪。T音大生。

16,17と夫は一泊のドック。

5月17日
リハビリと皮膚科の後、そのドックの結果を聞きに出向いた。
特にこれといった異常はなく、ホームドクターに結果を書いてくれた。

皮膚科受診中から咳が酷くなった。

5月18日
朝から回転性の眩暈。生徒2人休ませて貰った。
メリスロン4回服用。

5月19日
午前中ずっと寝たので午後はマシになり、2人レッスン。

Finaleでコンバスのテキストを作ってみた。

5月20日
2人レッスン。

夜中にFinaleの不明点が解明。
三連符の打ち方など。


パソコン購入を考える日々 - 2001.04.21 Sat

2009年に記載している訳だが、振り返ってみて本当に充実して何もかもが嬉しい日々の連続だった、と思い出す。病院のレストランでピアノ演奏をしては、患者さん仲間とお喋り。
生徒たちを教える喜び、その生徒たちが演奏会やコンクールを控えていれば、私に出来る全てを教えたい、と張り切っていた。
体調や体力に波はあっても、段々コントロールの仕方を覚え、入院中には予測だにしなかった生活を送れることも分かって来た頃だった。そして、「あれも駄目」「これも駄目」ではなく、ささやかであっても出来る様になる事を喜んで下さる医師の諸先生方の存在も、本当に有難いことだった。
恩師や友人の励ましと助力は頭も上がらない。


2001年3月28日
小金井の宮地楽器へ行った。

パソコン購入を勧めてくれる友人がここへ来て沢山。
この年齢になっては出来ません…も否定してくださる有難い方々。
中でも、お二人…一人は中学以来の友人さん、一人は留学時代のピアノの友人氏(偶々イニシャルが全く同じなので、当面これで記載します  特に氏は私が馬鹿丸出しの質問にも拘わらず、親切にメールでご指導下さいまして、でもご多忙で内心はこの様でおられなかったろうか??と…益々であります。)
筋力が無くても文字を打って、そのまま送信出来る「メール」、欲しいものを出掛けずともパソコンの前に座ったまま購入出来るネット販売、筆圧が無くて手書きで譜面を書くことに四苦八苦しては体調を崩していた訳だが、何と!楽譜を書けるソフトがある、という。

宮地楽器で、Finaleという楽譜を書くソフトの使用方法を教えてくれるクラスがある、とお知らせ。
中学1年以来の悪友、もとい、親友さんが、彼女自身は音楽が専門ではないにも拘わらず、私の為に、「一応私の名前でお試し入室を申し込んだからね。当日体調悪かったらドタキャンOKだからね。」と。何という有難いこと!!私の全てを知り尽くして。

ネットに繋がらないパソコンはあるものの、そしてブラインドタッチの練習を数回自己流でしたことはあったが、購入するなどとてもとても…だが。

彼女と待ち合わせてその「お試し教室」に出向いた。クリックすらままならないのに、五線の上に音符が記されて行く驚き。今はクリックだけで書いているが、これを鍵盤キーボードに繋いで鍵盤を弾いて記入する方法もあるという!!!
終わって、彼女の家に寄り、マックのノートパソコンを見せて貰った・・・う~~~ん・・・気持ちが「購入」に動いた。


3月29日
3つの科の予約受診。
カルテに「骨粗鬆症」とあった。

3月30日
レッスン2人。

3月31日
レッスン2人。

4月1日
娘の大学入学に備え、服や靴を購入に吉祥寺へ。
馬子にもなんとやら・・親馬鹿・・
2時から8時まで外出していたことになる。

帰宅してから「授業料免除」の書類。

4月5日
娘の皮膚科受診に付き添う。蕁麻疹。私も自分の受診。
終わってレストランでピアノ。

4月6日
リハビリと整形外科を済ませて、渋谷にて留学仲間7人で集まった。
その後、娘と吉祥寺で待ち合わせ、化粧品を買い与える。大学生に見える!親馬鹿。

4月12日
娘の入学式で武道館へ。
その後、これ又娘の皮膚科に付き合い、帰宅後は今までの血液検査の記録としての「献血の葉書」を探した。

4月14日
Finaleの講座。今日は一人だ。
終わってさん宅へ行き、又パソコンを見せて頂く。いよいよ欲しい!
ご主人の車で、新宿のパソコンを扱う店に連れて行ってくださった。まだ何を使うのか、何がメインなのか、持ち歩くのか、決められず、あれこれ見ただけ。

4月15日
生徒たちの勉強会を実家で。

4月17日
病院で3つの科をハシゴし、その後レストランでKさんとお喋り。
彼女は皮膚科にかかっていたところ、血液検査で貧血の酷さから癌を疑い、大腸癌が見つかり手術を受けた方。いつもレストランで本を読みながら私のピアノを聴いているのが至福の時、と仰って下さる。
(親しくさせて頂いていたが、この2年後、転移であっけなく亡くなられてしまった。病院とは、そういうところ、と以前別な方が亡くなられた時に某医師に言われて腹を立てたものだが、実際そういうことなのだった。)

4月19日
明日頼まれているちょっとした演奏、時間の関係で「トークに代わるもの」をパソコンで打って(古い、ネットに繋がっていないシロモノ)109枚コピーした。プリンタとは繋がっているのに、このプリンタが何と!一枚を刷るのに、そこらに買い物に出掛けて戻ってもまだ一枚をガシャコン、ガシャコン、と刷っている様な機械なのだ。

4月20日
重い鞄を持って、バスと電車を使い、九段下へ。下車して延々歩いて会場へ。
演奏し、食事会にも出席させて頂き、帰宅してバタン!ぐ~、と相成ったが、ここ迄出来る様になった。感謝!

4月21日
夜中に胸の苦しさと眩暈で目覚めたものの、再び寝て朝起きれば治っていた。
いよいよパソコン購入を考え、スペースを作った。

寛解と再燃を繰り返しつつも - 2001.03.27 Tue

2月19日
心臓外科受診。ホルター心電計の再予約。

2月20日
午前中に2つの科の予約受診。
夜、甚だしい胸の圧迫感。受診の時にはこういう症状は出ない。

亡き父が、心筋梗塞に罹った後、胸の不調を訴えて循環器科にばかり出向き、検査結果は何ともないので、常に「考えすぎ」と捉えられて帰されていた。それが結局「胃」から来るものであった。いよいよ胃ではないか、と検査を受けた時には末期中の末期の胃癌であった。
こういうケースもあるのだから、胃の検査も必要かもしれない。

2月22日
乳腺科、リハビリ、皮膚科。合間に1時間半ほどレストランでピアノを弾いた。

2月23日
ホルター心電計を着けた。普通に負荷をかける必要から、まずはレストランで2時間ピアノ。色々リクエストに応じた。
自転車で買い物。
一旦昼寝をしたら、眩暈で起きられなくなった。

2月24日
心電計を外しに行くのに、家からタクシーは使わず、徒歩、電車、そしてタクシー。

2月25日
娘の入試(9:30~15:40)。
お弁当を作って持たせる。
午後2人レッスン。

2月26日
今日も娘は入試(9:30~16:00)
夜は吉祥寺でイタリアン。

3月1日
2つの科の予約受診。
某科の教授に手紙を書いたことが、どうやらかかりつけ医に伝わったらしい。
「又教授に手紙でも書いたら如何ですか?」と言われた。

3月3日
2人レッスン。

3月4日
2人レッスン。

3月6日
生徒のひとりから、大変素晴らしい就職が決まったお知らせ。
嬉しいことだ!!

3月7日
循環器受診。
心電計を着けた結果。頻繁に期外収縮は起きているものの、問題のあるものではなく「異常なし」。
この数ヶ月、急激に演奏会や編曲その他、病気の前と同じ過度な労働に戻したことから、自律神経が乱れたのではないか、との意見だった。
息子と娘が車で送迎してくれ、3人でレストランで食事をした。

3月8日
不気味なほどの医師の丁寧さに唖然とするほど。
何か、誰か、伝えた???

3月10日
娘の卒業式。
6年間お世話になった学校もお別れ。感無量。
とは言え、高1以降は私の乳癌手術、多発性筋炎・皮膚筋炎で手は勿論、目もかけてやれなかった現実。受験も一人で頑張った。どれだけ先生方に支えて頂いたか、感謝極まりない。
午後1時に大学の合格発表があるというので、他のお母様がたと最寄りのドーナツ屋さんでお喋りをして待っていたが、娘達は別れを惜しんでいるのか、なかなか来ない。
皆さんと別れて大学へ。
娘は当然受かっている、と思っているのか、慌てもせず。
初めて向かう大学、門を間違えて入ってしまい、遠回りをした。
無事に番号があった!!
タクシーで水道橋に戻り、先生方にご報告とお礼のご挨拶を申し上げた。

3月11日
2人レッスン。

3月12日
母がお祝いに来てくれたのだが・・・

3月13日
洒落っ気も何もない娘に、せめてコンタクトレンズに、とアイセンターへ。
私は自分の受診。膠原病内科の先生は、いつもながらホッとさせてくださる診察だ。

3月18日
実家で、生徒たちの勉強会。

3月19日
生徒、午後と夜と一人ずつ。

3月20日
午後二人レッスン。

3月23日
整形外科で、大腿骨頭、骨盤、腰椎のレントゲン・骨量の検査。
90歳並であった。(ステロイドの副作用)

3月25日
午後二人のレッスンをして、夜、富士裾野、十里木高原に向かった。
夫、息子、娘と4人で。
病院のレストランで知り合ったO木さんの姉上でいらっしゃるS村さんのお宅(山荘)にお世話になった。こういうところに住めたらなぁ…
3月末でも冷たいが久々に澄んだ空気を満喫した。

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3月26日
S村さんのお店、フリーメン(Vlijmen)へ。
素敵なお店、素敵なご夫婦。一日中でも居たいと思うほど癒される。

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名残惜しいながら、お店を後にした。
息子が「一番眺めの良いところに連れて行ってやるよ」と運転をしてくれた。

(クリックで拡大されます)
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湖を楽しみ、御殿場のアウトレットにも寄った。息子が詳しい。

3月27日
膠原病内科のA先生、12:30分の予約は必ず2時間待ちで、レストランで又ピアノを弾かせて頂いた。
先生も、呼んでも待合室に居なければレストラン、と心得て下さっておられ(申し訳ないことだ)、レストランに電話で呼んでくださる。
一泊とは言え旅行が出来たことを、先生がとても喜んでくださった。その事が又嬉しく、次への希望と励みになる。

気が伝わるが如く過ぎ - 2001.02.16 Fri

2月1日
息子の運転でリハビリへ行った。OTの先生の意見の鋭さにいつも救われる思い。

2月2日
先日の演奏会をダビング。
自転車が無く、徒歩で文具店、パン屋、コンビニ。
メール2通(PHS)
その他は眠ってばかりいた。

2月3日
胸の圧迫感。原因不明。(自律神経??)
名簿も訂正事項が多くなり、年賀状のファイルを名簿代わりに使っているので、改めて古いものを抜きながら50音順に並べ替えた。
その他は眠ってばかり。

2月4日
ほんの少しエチュードを弾いただけで息苦しくなったので止めた。
関西の叔父(心臓外科出身のオールマイティ)に電話でこのところの症状を話し、意見を聞き、皮膚科教授にメール。
昼間は倦怠感で毎日寝ている。掃除その他家事、一切出来ず。
夕方コンビニに行ったが肘関節が痛んて荷物が持てず、夫に迎えを頼んだ。

いよいよパソコンでのメールが必要かもしれない。
ネットに繋がっていない古い(娘が小学生の頃の)パソコンで、ブラインドタッチを全くの自己流で練習してみる。使いそうな近いキーの組み合わせで。(「あさあさあさあさ」「これこれこれこれ」「ちえこちえこちえこ」など)

2月5日
循環器外来へ。3時間くらい待たされた。しかし、心電図室の往復も苦にならず、適度な運動になった。
夕方から倦怠感が酷く、全く身体が動かず。
夜中に起きたので、試しにパソコンで礼状を打ってみた。CDを梱包してあちこちに送付。
パソコンに向かったので、よく使うと思しき語尾をブラインドタッチで覚えてみた。(「ですですですですです」「ますますますます」「ましたましたました」「でしたでしたでしたでした」「ございますございますございます」等々。)

2月6日
倦怠感甚だしい。食事と電話以外は翌朝まで眠っていた。娘が薬を飲ませに来てくれる。

2月7日
階段昇降、胸痛。

2月8日
リハビリ、皮膚科の後レストランへ。心臓の手術をされたお二人と知り合い(去年だ)、お喋りをしたりピアノを弾いたり。※

※ 数年後に気功を習い、この辺りの胸の苦しさというのは、気をキャッチしていたのではないか?と思ってしまった。習った頃に、中途半端な学び方だと、そういうこともあり得る、と。

パソコンに慣れてみると(ネットには繋がっていないのだが)、手紙など筆圧が無くともまともな文字の形になる有難さを実感。

2月11日
昼過ぎに関西の従兄夫妻が実家来訪。我が家一家も出向いて一緒に食事をした。
その後、私は実家のピアノにて勉強会。

2月12日
PHSで何文字くらい受信が出来るのか、友人が試しに送信してくれた。(6千字以上)

2月13日
メールを友人に転送・保管してもらう。49通。
銀行、郵便局へ用事を済ませに。

夜、病院で親しくさせて頂いているOさんのお姉様より電話あり、今晩が危ない、とのこと。夫と共にタクシーで出向く。
最期まで立派でおられた。本当に、どうしてこの様な良い方が亡くなられるのか理不尽。

2月14日
ホルター心電計を付けた。その状態でレストランでピアノを1時間。
帰宅して生徒を3-4時間レッスン。もっと負荷を…と思ったが、眠ってしまった。

2月15日
朝リハビリ。その後心電図を外し再度リハビリ、皮膚科、レストランにて2時間ピアノを弾き、採血。
夜、娘が脚を痛め、自転車で迎えに行った。

2月16日
乳腺科受診、超音波、採血、レストラン、会計を済ませ、1時からOさんの葬儀に参列。私のCD(キラキラ星変奏曲等々)を流してくださった。





病気再燃??? - 2001.01.31 Wed

1月12日

この辺りから凄まじい倦怠感が続いたまま。
銀行、郵便局、手紙をNHKに書いて(大阪のT女史の指示通り)、再度郵便局。
編曲は „ Die ganze Welt ist himmelblau“

1月13日
甚だしい不調。起床時から手が痺れたまま。
編曲は „ Die ganze…“の続きと „ Spiel diene Geige…“ そして6人分のコピーを録り、郵便局へ。又、メインの科の教授に相談事の手紙。時間との勝負で体調は最後の最後。
考えた音や聴き取った音を五線紙に凄まじいスピードで書き込んで行くのが、どうも不調時の共通する原因の様だ。(1999年年頭からの作業然り)

生徒の一人が就職の相談で来宅し、2時間。私には何とも言い難いし、役に立てるものでもなかった。大変申し訳ないながら、何と返答したのか記憶に殆どない。大切な相談であったろうに…それほど疲れ果てていたに違いない。(外見は常に元気に見えるらしい)

1月14日
R. Stolzのアレンジを終わらせ、郵送用にコピーを録った。手紙数通。
頭痛は取れず、電話で左手が受話器を支えられずに震える。相手にはそれが見えないから仕方ない。

1月15日
手紙を10通以上。
頭痛、動悸、息切れ、倦怠感が甚だしい。

娘が大学受験勉強を頑張っているので(自習室を借りて自力で)、私も頑張らねば!と思って開始した諸作業は無謀だったかも分からない、と思いつつ、本番間際となっては前進あるのみ。

1月18日
病院に出掛けるまで、招待状の宛名書き。リハビリ(OT)では体調の酷さに驚かれ、担当教授より皮膚科に手紙が行った。
皮膚科では教授を含めて受診。
レストランではO姉弟と食事をし、歓談。私の現状も。

1月20日
27日の本番は、万が一を考えて代役も立てるべく病院からのアドヴァイスにて、原曲の音源をコピー したり、楽譜をコピーしたり、手紙を添え、・・・余計に疲れてしまった。
(こういう状態が起きうる、ということをもっと早く予測して頂けていたなら、そしてドクターストップなどもっと早い時期にかけて頂けていたなら…と内心、こんな時期に却って忙しくなってしまった…と不服)

1月22日
気功を受けた。
すっきりが半分、脱力感が半分でフラフラになってしまった。
休め、という正直な信号かも分からない。

1月24日
10時から午後まで合わせ。
夜は自分のパートの練習。

1月25日
明後日に向けての初めての合わせ。
途中で呼吸困難となる。部屋に戻って横になり、病院に電話をしてアドヴァイスを得る。

1月26日
病院も頼りにならぬまま、自分のパート練習。

1月27日
11時からG.P.
14時から本番。
大雪の中のコンサートとなった。
建物の中に居た我々は知らなかったが、電車も止まった様だ。その様な中、いらしてくださった方々に感謝あるのみ。娘の高校の先生方から赤い薔薇の大きな花束を頂いた。

万が一の代役の為に控えていてくださったH.U.さんには心から感謝。

諸事情の中での準備と演奏にも拘わらずシュトルツのメドレー、演奏もアレンジも好評であった。

Robert Stolz Medley

Mein Liebeslied muss ein Walzer sein - Im Prater blüh'n wieder die Bäume - Ob blond, ob braun, ich liebe alle Frau'n - Auf der Heide blüh'n die letzten Rosen - Die ganze Welt ist Himmelblau - Spiel auf diener Geige das Lied von Leid und Lust - Zwei Herzen im Dreivierteltakt



終わって寿司屋へ行ったが食欲皆無。

1月30日
皮膚科にて「教授が心配しています。何故ドクターストップをかけなかったのか、とお叱りを受けました。僕の立場が危ういので、暫くおとなしくしていてください」と言われた。
ジョウダントハワカリツツモ、ソウイウモンダイナノデアリマセウカ・・・

循環器外来にて、近日中にホルター心電計を付けることになった。心電計を付けたまま、普通の生活をして負荷を掛け、どの様な時に心電図に異変が起きるか、ということを調べるそうだ。1日では正確さに欠けるので、日を離して2回行うらしい。




2001年新年 - 2001.01.11 Thu

1月1日
夫は早々に演奏旅行。
快晴。富士山辺りを通る,と言う。途中で落として貰ってOさんのお姉様の店にて富士山を満喫しようと思ったが,年賀状もまだ沢山残っているし,止めて近所の神社へ。
おみくじを引いた。Oさんの分も引き,とてもよかったのでファクスでお姉様宛に送信。

1月2日
昼12時から20:00頃まで,中学以来の友人宅に「ご馳走」に惹かれ,久々にお邪魔。大勢集まった。(送りは夫,迎えは息子にて)ワイワイ楽しかった。
帰宅して,演奏会のパンフレットなどの作業。

1月3日
演奏会の案内,CDの宣伝などを作る。
妹来宅。
Stolz聴けど書かず。
夜,回転性の眩暈酷い。

1月4日
倦怠感甚だしく,病院はキャンセル(矛盾!)
年賀状やメール。
夜からRobert Stolzメドレーの編曲に取り掛かった。まずは „Mein Liebeslied muss ein Walzer sein“

1月5日
相変わらず年賀状,メール。
編曲は, „Im Prater blüh'n wieder die Bäume“
流石に倦怠感。

1月6日
朝までぐっすり眠った。
結婚22周年。
編曲は, „Ob blond, ob braun ich liebe alle Frau'n“

1月7日
編曲は, „Auf der Heide blüh'n die letzten Rosen“

1月8日
編曲は, „Die ganze Welt ist Himmelblau“
午後1時から4時半まで実家にて生徒たちの勉強会。
倦怠感,立ちくらみ甚だしい。


1月9日
12時半と2時の受診予約は2時半から2つとなった。レストランで楽譜を広げてアレンジ。
書いた分は朝コピーして,弦4人に送った。
甚だしい疲労感で院内を歩けず,動悸と息苦しさ。珍しく聴診器を当てて頂いた。

1月10日
大阪のTさんより恐怖の電話。何でもNHKのナントカさんに手紙を書くべく。(怪しい)

1月11日
リハビリでは,今までで最悪,と指摘された。皮膚科では検査データのみしか相手にしてくれない。検査値がどうあれ,息苦しく倦怠感も甚だしいのだから何かしてくれても良いのでは??
とは言え,受診後にレストランに行けば,あれこれリクエストを受け,「ラ・カンパネラ」やスクリャビンのエチュードまで弾いてしまった!気分は少し晴れたが,フラフラは限界かも分からない。


それにしても,

マスメディアの影響の大きさたるや!!!

「戦場のピアニスト」で有名になったショパンの遺作のノクターンやバラード第1番のリクエストを受けること屡々。
これらは余り問題ないのだが,問題はリストのパガニーニ練習曲から
「ラ・カンパネラ」!!!
有名にして下さった演奏家には感謝する。私もこの曲は好きだから・・・しかし・・・
その演奏家のお陰で,私が演奏すると「そんなに速い曲なんですか??」
物知り顔の患者さんは「倍速いですよ」

ちょっと待って!ちょっと待って!!
この曲は元々がパガニーニのヴァイオリンコンチェルト第2番の第3楽章「ロンド」である。速さは(ヴァイオリンも勿論奏者によって速さは多少違うが)Allegretto moderato。8分の6拍子。ピッツィカートやスピッカートや頻回なるフラジオレット(しかもドッペルあり)を駆使した技巧そのものが音楽になっている面もある。そのキャラクターもリストは模倣している訳で…ピアノでは連打や素早い半音階のパッセージ。速さは単にAllegrettoとなっている(moderatoは付いていない)。同じ8分の6拍子である。
それらのキャラクターを感じた時,最初がいくら跳躍するメロディーだからとて,そこの都合でテンポを決めて良い訳はない!リストの技巧の見せ場ではないか!!

その様なことを感じるのは,どうやら私だけではない様だ。
1999年に出版されたCD,「11人のピアニストによるラ・カンパネラ」(タイトル,うろ覚えですが)は痛快極まりない。しかも最後にヴァイオリンの原曲も入っている。

○○○・○○○○さん,お聴きになられましたか?
(失礼な日記でしたらお詫びを申し上げます)







2000年12月その後~2001年年明け - 2001.01.01 Mon




12月13日
流石に倦怠感と疲労感で身がよじれる程だった。午前・午後,ぐっすり眠っていたが,夕方,ご近所のママさん仲間Sさんよりケーキが届いて生き返った。

12月14日
婦人科,リハビリ,皮膚科予約受診。
親切な友人が,私のPHSのメールをパソコンに保管してくれる,とのこと,片っ端から(記録の残しておきたいものを)転送。パソコンのお蔵は大きいぞ,と。

12月15日
12日にいらして下さった方々に礼状。

12月16日
ダビングをしながら,風邪でゴロゴロ・・・

12月17日
ダビング,お歳暮を送りに東急へ。送り状を!と走ったが,集配に間に合わず。
午後中二人をレッスン。

12月18日
レッスンを休ませて貰った。

12月19日
インフルエンザの予防接種。その後レストランへ行き,24通の礼状を書き,投函。
膠原病内科予約受診。
Oさんの病室へ寄ったところ,CDのサインのお礼,と私の似顔絵を下さった。驚いた。余命幾ばくもない,など,医師の誤診に違いない。その後レストランに行き,ずっとピアノを弾いたりお喋りをしたり2時間くらい過ごした。

12月21日
ドイツ語専門の友人から,CDブックレットのライナーノートの独訳が届いた。コピーしてCDに入れた。

ライナーauf+Deutsch_convert_20081104164639

自転車で久我山→吉祥寺のユザワヤでクリスマスカード購入→病院へ。婦人科,リハビリ,皮膚科,その後レストランにてドイツ語でカードを書き,ピアノを2時間弾いた。タクシーで帰宅し,勢いついで,自転車で5時まで開いている郵便局とスーパー。

12月22日
2~5時半,生徒二人レッスン。あちこちに手紙をコピー。カメラ屋にダビングを依頼。
リリースしたCDもあちこちに送付。

12月23日
2~6時,生徒二人レッスン。CDやヴィデオを送った。

12月24日
娘の学校の先生方に礼状及びCD。
夜は,近くの教会のクリスマスへ。

12月25日
一人レッスン。
年賀状作り。年内の手紙を20通。
1月の室内楽コンサート用にメドレーをアレンジしたいと思っているRobert Stolzの曲を選んだ。
夜は回転寿司へ家族で。

12月26日
病院の待ち時間に年賀状や手紙の宛名を書き,投函。
毎日久々に普通の年末だ。
受診後,レストランでKさんと4時半までお喋り。その後Oさんの病室を訪ねたところ,向かいのベッドが我が家の隣りのFさんで吃驚してしまった!入院されておられる事は,11日に奥様に病院でお会いし,存じ上げてはいたものの……何という偶然!

12月27日
年賀状,CD,ヴィデオ,あれこれ手紙を添えて二桁数送付。

12月28日
婦人科,リハビリ,皮膚科予約受診。
レストランでリクエストに応じて何時間弾いたろう…。リストやショパンのエチュードまで。
ヴィオラのHさん退院。
Oファミリーを見送り,吉祥寺経由で帰宅。

12月29日
年賀状書き。
夕方,渋谷の東急で買い物をし,娘の通う塾に挨拶。
夕飯のお弁当まで買って,肘が堪えた。

12月30日
年賀状書き以外はうたた寝。

12月31日
軽く大掃除。
娘は,塾の先生やクラスメイトと明治神宮に合格祈願。夜中の2時頃に,塾の先生が送り届けてくださった。
入浴し,メール(PHS)送信,明け方5時頃就寝。2001年の年明けだ!!
病ぞ,何処へ?…と思いたくなるほど普通の年末だった。

12.12.12.(3) - 2000.12.12 Tue

一足飛びに先に演奏会当日を載せてしまったが・・・

春から病院のレストランで待ち時間をいつも過ごさせて頂き,練習も全くせずにリクエストに応じてピアノを弾く様になっていた。
それは,前年には「もう一生今までの様に弾けないことを覚悟してください」と医師たちより告げられた私には奇跡とも言いたい事柄だった。
おそらくピアノを自由に弾くことそのもののみならず,聴いてくださる患者さんからの感謝の言葉が逆に,体内の複雑なメカニズム(膠原病は免疫異常疾患。自分の身体を異物と捉えて攻撃する,とでも言ったらよいのだろうか?)を正常に保つ助けになったに違いない。

いつもレストランで弾いていることは,どの科の医師たちも承知の上であり,待合室で呼ばれて居なければ「レストランにいる筈」と電話がかかるほどだった。

ある日,今後の話をK教授と交わしていた時に,そろそろ復帰の演奏会をしたい,出来れば色々な患者さんと知り合ったこの病院で,と話したところ「それは良いじゃぁないの,早速実行に移しましょう」と仰り,すぐさま事務長にその場で電話をしてくださった。
その日のうちに事務長とお会いし,トントン拍子に話が進んだ。
11年11月11日に退院し,12年12月12日に50歳を迎える。数にこだわる訳でも験担ぎでもないが不思議な数字かもしれない。
出会った患者さん方や,常に励ましてくださった友人たち(快気祝いもしなかった)に元気になった報告も兼ねて,食事をしながら聴いて頂けたら…という発想だった。病院だから,ひょっとするとお世話になった先生方にも聴いて頂けるかも知れない,と。
感謝の気持ちからチャリティーにて。

何日か後になり(おそらく会議の結果),グランドピアノも1階のロビーも使えない,とのこと。
それならば,いつもピアノを弾かせて頂いているレストランにグランドピアノを運び入れて行うことは不可能だろうか?ということになった。
レストランのマネージャ浜宇津氏も援護射撃を惜しまず,寧ろ積極的に私の支援をしてくださった。
そしてその事をベーゼンドルファー社に話したところ,無料で貸してくださる,と決まった(日頃から演奏会では,調律費と運送費以外は無料で貸し出してくださっていた)。
これはまだ10月の話。

夏前から少しずつ進んでいたCD化への編集(1998年,多発性筋炎や乳癌に気付かずに企画したリサイタルのライヴ録音),ライナーノートも11月初めに皮膚科の塩原教授に文章を頂けることになった。CDジャケットの表紙は,生憎私はまだムーンフェイスや皮膚筋炎の紅斑が治っていない為に写真は載せられず,私が5歳の頃に父(奥龍之介)が描いてくれた絵を使う事になった。

そしていっそのこと,そのレストランでの復帰リサイタルにそのCDを発売開始としたら良いのではないか,と色々な事が一度にどんどん進んだ。

曲目は,いつもリクエスト頂いている作品をメインに。
トークを入れながら。…これは病気の事後報告も兼ねてであった。

演奏を通じて知り合った患者さんはそれぞれ色々な問題を抱えていらしたが,中でも,肺癌が脳に転移した,という患者さんからは逆に励まされること屡々だった。長くない事もご家族やお姉様は勿論のこと,ご本人もよく理解しておられ,それでも「自分は病気にはなってしまったけれど,病人には決してならない」と,一人で病院を散策されていた。レストランもそのひとつだった。かつてシャンソンを弾き語りされていた,とのことで音楽には厳しい耳を持っていらした。ご家族やお姉様とも,よく食事をご一緒させて頂いた。
その方が,年内持つか持たないか,という状況に陥られた。
何とか演奏会を聴いて頂きたい,と念じた。
当日は車椅子で,お姉様やご家族と一緒に聴いて頂けたことが何より嬉しかった。
(先に載せた動画には,2008年現在既に先に天国に行かれてしまった方々が,数えれば5本の指では足りない。病院とはそういう場所だ、と医師達は言われる)

演奏会はもとより,夜にはBGMを弾き,沢山の恩師や友人達とも久々に会えた。
病院の先生方も聴いてくださった。
至福の時だった。

いらしてくださった方々はもとより,許可を下さった病院の関係者の皆々様には,お礼の言葉も見つからぬほど感謝しております。



この後も,アップライトのピアノがレストランを去るまで弾かせて頂き,更に多くの患者さん方と知り合い,親しくお付き合いさせて頂き,貴重な時を過ごさせて頂いた。


前述のCDはこの日に間に合い,多くの方々がご購入くださった。

ジャケットの元になった絵。(幼稚園の頃,モーツァルトのKV.545のソナタを練習していた傍で父が描いていたのを覚えている。)


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父はどんな思いで私を写生していたのか,5歳当時は全く考えることもなく。
私が二人の子供の母になった時,あぁ,絵が描けたらなぁ…と思ったものだった。





義父の事に触れる。
11月3日に義父(田中春弥)が,日展の打ち合わせの折に動けなくなり,救急救命センターのお世話になった。80代半ばながら忙しく仕事を次々控えていた。
診断は,徐脈(35以下)により血流が脳に行かない小失神発作とのこと。
房室ブロック※で,今後はペースメーカーを絶対に入れなくてはならない部類,という。
迷う選択肢も無く,私が通院及び入院に付き添うことになった。
11月6日 薬を使っても房室ブロックは続き,脈拍は44。12月まで大丈夫,という保障も無いそうだ。11月27日に外来の最終チェックをし,12月4日に入院し,5日にペースメーカーを入れる手術,と決まった。
※ 病名で,心房から心室への電気の通り道が駄目になり,P波(小さい波)が沢山ある。洞結節から「速く動け」と指令が出ても心房の動きの間隔は一定のリズムで,心室の波が付いて行けない。心房と心室の動きを整える力が無い。(等々,医師の話を4ページにわたりメモしてあるが,兎も角ペースメーカー以外に治す手段は無い,ということだった。)
手術は勿論,術後の経過も甚だ良く,12日には退院しても構わない状態になっていたが,私の企画に合わせて退院を延期し,一緒に聴いていてくれた。




12.12.12.(2) - 2000.12.12 Tue

画像の続きをアップしてみます。
(ボツボツ途切れる場合はお知らせください)


シューベルト:即興曲Op.142/2冒頭

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シューベルト:即興曲Op.142/2続き

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シューベルト:即興曲Op.142/2続き

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ショパン:バラード第3番 途中から

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ショパン:英雄ポロネーズ 中間部辺り

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シューマン:トロイメライ(「子供の情景」より)

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12.12.12.(1) - 2000.12.12 Tue

急に日が飛びますが…(又改めて間のことは書き,編集するつもりです)

病院のレストランを通じて知り合った方々,しかも私よりも余程酷い状態の方々より勇気づけられることの多さ!
「自分は病気になったけれど,病人には決してならない!」と,車椅子で院内を飄々と散策したり,レストランにいらしては私にリクエストを下さったり,身内の方々と楽しそうに過ごしておられたOさん,私もその輪に加えて頂き,どれだけ有意義な時を過ごさせて頂いたか・・・

又,ここまで私の回復に導いて下さった諸先生への感謝。

半世紀を生かせて頂いた感謝を込めて,私の誕生日にレストランで演奏会を開くことにしました。詳しい経緯は又改めて書きます。
ベーゼンドルファーのピアノを借り入れました(いつもはアップライトを弾いており,この日くらいは!と)。

プログラムは↓
19962582_3538426344.jpg  ぽちっと…

午後3時半,大きな窓の外がまだ輝いていた時刻から始め,演奏とトーク半々にて,途中から夜景の輝きとなって行きました。

当日になって,生徒たちに誰かヴィデオで撮って欲しい,と連絡を回したところ,初めて使うヴィデオカメラをマニュアル片手に男性群が撮ってくれた,という,我が儘教師に親切な生徒たち……
受付その他係も,生徒たちが分担して行ってくれました。感謝!!!


(動画がボツボツ途切れる場合はお知らせください)


ショパン:ノクターン変ホ長調 Op.9/2

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ショパン:ワルツ嬰ハ短調 Op.64/2

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リスト:愛の夢 第3番より 冒頭~

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ショパン:スケルツォ 第2番 Op.31より 途中より

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シューベルト:「音楽に寄せて」奥千絵子編曲 最終部分


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シューベルト:即興曲 Op.90/2 冒頭~

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2000年7月後半から - 2000.09.30 Sat



7月18日
循環器科受診,階段付きの心電図,その他いつもの科を3つ。
帰りはデパートに寄ってお中元を送り,帰宅して16日の演奏会のヴィデオをコピー。

7月19日
送り状。
娘の個人面談(高3)。初めて地下鉄経由で水道橋へ出てみた。通学にはやはり総武線一本が楽なことが分かった。

7月20日~
ひたすら16日の礼状書きと暑中見舞い。
暑中見舞いでは,ご心配をお掛けしたまま1年近くご無沙汰してしまった方々には,近況報告を兼ねて,16日の録画をコピーして添えた。

気になる症状は眩暈。
耳鼻科で処方されたメリスロン(眩暈止め)を毎日服用。少しは効いているのか不明。

生徒のレッスンもほぼ普通に行える様になっている。
買い物も自転車で普通に。

病院のS教授より,7月の演奏会の感想,如何に感動したかを手書きで頂いた。その事が又大きな励みになり勇気づけられる。

病院では相変わらず待ち時間をレストランのピアノで過ごさせて頂いている。

8月31日
プレドニン(ステロイド),いよいよ7.5mgまで減量。

娘の皮膚科受診では,水疱瘡の抗体有無と,耳鼻科の引き続きの検査をお願いした。

9月3日
生徒達の勉強会で,グランドピアノの蓋の開閉が出来た。

9月7日
皮膚科,リハビリ。
レストランでは,ピアノを弾いていたところ,お礼のメモを置いて行って下さった方がいらした。
関西の叔父(心臓外科専門だが万能医)が上京し,実家を訪ねてくれるというので喜んで私も向かった。

9月12日
久々の婦人科受診。


この辺りは1998年のリサイタルCD化に向けて,ナミ・レコードとのやり取り,作業やチェックに余念がない。

9月30日
CDのライナーノートをS教授に書いて頂けないだろうか,と,演奏テープを添えてお願いの手紙をお送りした。

演奏会当日 - 2000.07.16 Sun




2000年7月16日

手前味噌ながら、楽しい演奏会だった。
企画・構成・編曲・演出・トーク・実演・指揮等々独り占めのぶんちゃんでした。

第1部はコントラバスのソロリサイタル。2台を弾き分けることも。(ソロチューニングや楽器の説明など)
伴奏は浜川さんにお願いした。

000716表紙

000716プログラム


第2部はトークと演奏。
プログラムは上の様な大まかな流れ。

★2009年8月に追記:動画は、沢山載せた為に動かない場合があります。この日記に限らず、その様な場合にはタイトルをクリックし、倉庫から直接ご覧頂けます様お願い致します。動画の形式が変わったのか、いくつかが表示されなくなったとの知らせを受けて改めてアップロードしたところ、タイトルも変わり、「高画質で…」の表記も自動的に入ってしまいました。

コントラバスの2音間が何センチあるか測ってみたり,ソロ楽器として如何に大変なテクニックを要するか。
倍音の説明をざっとして(短時間には理解不可能かも分からないながら),その後でモーツァルトのディヴェルティメントをコントラバス無し,有り(チェロの楽譜を弾くが,実音は1オクターブ下が鳴る)の実験。



★動画の著作権は全て「東京カンマーコレーゲン」にあります


シューベルトの「鱒」の五重奏曲第1楽章でも同様に。

バス課題ではありませんが,既製の数曲をバスパートだけを弾いて貰い,聴衆に曲当てクイズ。
よくご存知の方がいらっしゃるもの…と感心致しました。(1曲は兎も角)

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バッハの平均律クラヴィーア曲集第1番のプレリュードを伴奏グノーが旋律を付けた「アヴェ・マリア」もバス課題の様なものであるが,それなら同じコード進行であるなら,今度はソプラノ課題も可能。実際,このアヴェマリアに既製の曲も当て嵌められるのではないか?その実演。


メロディーとバス,そしてハーモニーという3つの構成でのバランスの話など。

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(自分では痛くも痒くも苦痛はないが,指摘されてみれば,なるほど…まだ「ムーンフェイス」が残っている。この年齢になれば気にもならない…が情けない…

マーラーのシンフォニー,例のコンバスがソロを弾く部分の元となった民謡を,弦5人でカノン。

ワルツに於いて1拍目の役割。

又してもシューベルトの五重奏曲「鱒」,第4楽章でバスにメロディーがあるべき変奏曲で,ピアノが華やかに頑張りすぎる悪い演奏の話。

全て実演を伴ってお話。



第3部はウィーンもの
Josef Straussの「鍛冶屋のポルカ」では私が鍛冶屋になって,カナトコを叩いた。(使用したのは立派な○日鉄の頂き物)
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アンコールは,2ヶ月前に逝去された中田喜直氏の4曲をメドレーにて,室内楽の伴奏で。(何十年ぶりかで指揮をしてみた。腕が外に拡がりにくいのはリハビリ不足か・・)

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自己満足で終わってはいけませんが,この日,半券を数えたところ300名以上のお客様がいらしてくださったことが判明。
ここ迄回復させてくださり,治療の支えになってくださった病院の各科の先生方にはお礼の言葉も見つからぬ程感謝に堪えませんでした。そして友人たちにも。

自分としては自信を持って社会復帰の第一歩となりました。



昼間の生徒達の演奏は聴くことが出来なかったが(まだ室内楽の最後の準備の買い物までしていた )上手く行った様でテープが届くのを楽しみにすることになった。




演奏会に向けて - 2000.07.15 Sat




2000年 6月1日
一ヶ月ぶりのリハビリ。全て半量にしてくださった。

6月2日
帯状疱疹以来,あちこち調子が狂っている。
耳の中の「ポコポコ」といる音もずっと取れない。鈍痛もあり,ふらつきも酷い。

6月3日
娘の肉離れで通っている病院の付き添いに2時間かかってしまった。

6月4日
背中から胸(少し左寄り)に刺す様な痛み。
こなしたのは,R. Stolzの „Auf der Heide…“の譜面の修正くらいだ。

6月5日
息子が送ってくれ,皮膚科へ予約外にて教授の受診。4時間近く待った。心電図や採血。
病院後のフラフラが甚だしい。

6月6日
第二内科。レントゲンを撮り,今後の予定を立てた。心筋の超音波など。息子がずっと付き添っていてくれ心強かった。
帰宅後は生徒に4枚のファクス。※
※ この辺りはまだ手書きだった(2001年5月からパソコン使用)

7月16日に押さえてある,生徒達の発表会用のホールで,昼間は生徒たちが発表会を(大人の生徒が中心になって動いてくれている),夜は生徒達に甚だ勉強になるであろう,そして又一般の方々も一緒に楽しめるであろうレクチャーコンサート,と計画を変更したので,そろそろ動かねばならない。

6月8日
朝からコピー大量,手紙,宛名。
病院の後で,30通を自転車で郵便局へ。
チケット作り。

6月9日
久々の自転車の所為か,左右上腕が痛み,右は手書きに支障が出る。
フラフラが甚だしく一日寝ていた。

6月12日
娘と一緒に,私も耳を診て貰った(私の旧姓と同じ名前の,眩暈がご専門の先生)。
帰りはロイヤルホストで食事をし,買い物も済ませた。耳は空気を通した所為か,痛みが続く。

6月13日
招待状を作った。
歌詞の訳,移調など。

6月15日
3つの科の受診。合間2時間ずつ,6階レストランでピアノを弾かせて頂いた。何より心地よいひととき。
夜,家族4人で寿司屋。

6月16日
招待状に添える手紙2枚を書き(近況報告も兼ねて)コピーをし,約30通を自転車で郵便局に行き,送った。帰り,日通自動車学校に寄って「ペーパードライバー」の講習を調べた。今はオートマで免許も取れることに驚いた。講習を受けたところで,我が家の全く違う車種では……。我が家の車で,夜や土日に練習した方が賢いかも分からない。

6月19日
絶食にて骨シンチの造影剤→超音波→子宮癌の検査→骨シンチ造影→ナースステイション
疲労困憊。

6月20日
第1内科待ち時間2時間,レストランでピアノを弾かせて貰った。
娘の検査も1時間。
我がホームドクターが医療ミスを受けた,と電話。血液を溶かす薬を3倍注入されてしまい,血液が止まらなくなり,酷い目に遭ったそうだ。自分のかつての教え子達なので,訴えるに訴えられないとか…。

6月22日
レストランで,ショパンのバラード4番,英雄ポロネーズ,モーツァルトなど1時間以上弾かせて頂いた。
行きは自転車と電車で吉祥寺に出てユザワヤに寄りタクシーで病院。帰りはバスと電車。

6月23日
乳腺科の検査。

6月25日
新聞の折り込み広告にあった,近所の教会での「音楽伝道礼拝」なるものに出掛けてみた。娘と共に,感動のひとときであった。

6月27日
病院は心臓エコー。
6階のレストランでは,平均週2回ピアノを弾かせて頂いている。

6月28日
生徒Tさんのレッスンを2時間。
階段から落ちた。

6月29日
朝頭痛と倦怠感に加えて,打った脚が痛み,リハビリは欠席。
生徒のテープレッスン。

6月30日
演奏会場と,7月16日の件で打ち合わせ。

7月1日
演奏会の最後に客席の皆さんと歌う合唱のアレンジと,室内楽伴奏のアレンジを始めた。
5月に亡くなられた中田喜直氏の歌の数々をメドレーにする。
階段から落ちて打った脚は紫色に。まだ痛む。

7月2日
又しても30通の投函。

7月3日
婦人科の結果。特に問題はなし。
長電話によるフラフラが常にあるが,片耳で聴いて話すことと関係ないだろうか??

7月5日
編曲大急ぎ。
実家で室内楽の合わせ。

7月6日
皮膚科教授の受診。大いに励みになる。音楽の話題が通じるとは,何と有難いことだろう。
私の書きかけの室内楽スコア(待合室で書いていた)を手に取ってご覧になりながら「凄いですね~,素晴らしいですね~」と仰ってくださるのが,大変励みにもなり,そうだ,ここまで回復しているではないか!と自信に繋がる。
反応も素早く,気分爽快。

自転車に娘のカバンを乗せて押して歩いた(まだ治らず)

7月9日
16日の内容の準備。

7月10日
娘と耳鼻科。眩暈止めのメリスロンを又処方された。
昼寝も起きられず,夜のレッスンに備えた。一人を2時間半見た。

7月11日
弦5人にファクス。
生徒に3枚のファクス。

7月12日
パート譜作り。
合わせ。

7月13日
病院に行くまでひたすらコピー。
レストランでは2時間弾かせて頂いた。

(この日だったと思うが)演奏を終えてレストランを出たところ,ニコニコ優しそうな女性に声をかけられた。
これがM.S.さんとの出逢いだった。弟さんK.O.さんが悪性腫瘍で入院されておられ,いつも私のピアノを聴いていてくださるそうだ。私がどういう訳でピアノを弾き,どういう経歴であるか,尋ねられたらしい。
名刺を渡した様で(この辺りは日記を書いていない)夜に早速電話を頂いた。
励まされているのはこちらです!

7月14日
前々日になって演奏会プログラムの内側のコピー。

7月15日
プログラム表紙を作り,コピー。
話す内容を確認し,第3部の演出を考え,小道具の準備。
楽しい会になるに違いない。
生徒達には勉強になるに違いない(分かってくれているのかどうかが危うい)

2000年4~5月(レストランでピアノを弾き始めた!) - 2000.05.31 Wed

4月1日
7月16日にピアノの生徒達の発表会用にホールを予約してあったのだが,どうしても変更せざるを得ず※ 手紙を書いて33通分コピーし,PSが必要な人達には書き加え,切手を貼った。投函は夫に頼んだ。何かひとつこなすと,あとは寝てばかりの日々。
※ ノートにはその様に私の文字で記載してあるのに,記憶に無い。この辺りは本当に本当に申し訳ないながら,一事が万事その様に過ぎていた。(後でその手紙を探そうと思う)

4月6日
疲れてしまい,リハビリは途中で中止。
6階のレストランできちんと食事をした。

この辺りは,キッチンや子供たちの部屋を掃除したり,冬物の整理をするなど,家事に励んでいた。
ただ,一旦横になるや,夜は自力で立ち上がれない。
朝の手~全身のこわばりもひどく,日中もよろけて外を歩く時は甚だしく注意を要する。

4月17日
私の体調と比例する如く,娘も不調。
下痢をし,腹痛を我慢して登校。

4月18日
先週同様,病院の待ち時間を6階の見晴らしの良いレストランで食事をしながら待つことにした。
アップライトのピアノが入っていた。
無性に人前で弾きたくなり,ウェイトレスの方に許可を得て弾かせて頂いた。
ショパンのワルツその他小品。
拍手を頂いた。
しかも,「いつでもどうぞいらして弾いてください」とレストランのマネージャの方から名刺を頂いた!!今後は待ち時間,ピアノを自由に弾いてよいのだ!!


テレビで,元衆議院議員の栗本慎一郎氏が,脳梗塞で倒れた時に頭の中で「シャッシャッ」とマラカスの様な音がした,と語っていた。私の「線香花火の様な音」「血圧計のポンプの様な音」と表現している頭の中(耳の奥)の音は,まさにその様な音だ!!体調の良い時は余り気にならないのだが,頭が締め付けられ様にフラフラしている時は,その様な音も比例して酷い。

4月19日
ヴァイオリンの仲間の従兄の方が,私の通っている病院の脳外科にこの4月から勤務されておられるとのこと。早速脳~延髄のMRI検査を受けることになった。

4月21日
娘は数日前に肉離れを起こし,松葉杖を使用する為にリュックサックでの登校許可を得る。

4月22日
娘の不調は胃にも起き,ホームドクターのおられるK町病院にて胃カメラ。

4月26日
娘は「お腹の具合が悪いので早退させます」との通信を持って帰宅。

4月27日
皮膚科とリハビリ。
リハビリでは,ここのところ酷い手のこわばりや関節痛など,第一内科より整形外科を紹介頂く様にアドヴァイス頂いた。
待ち時間は又,6階レストランでピアノを弾かせて頂いた。ほんの30分ほどだったが,食事をしている方々の反応が伝わってくる。

この日の皮膚科よりの検査と,脳のMRIの結果次第で,1~2週後からプレドニンを2.5mg減らして10mgにするとのこと。

2000年5月~
5月1日
朝MRI,夕方娘のY病院に付き添い(肉離れ)。

5月2日
最近ずっと低かった(10~20)CKが珍しく96という。
そして皮膚科ではステロイドの減量。少々不安。
膠原病内科,リハビリ。一日病院。

5月6日
娘のY病院は,今日は夫に付き添わす。
母屋の食器棚の上のものを全部どけ,夫が下ろしては私が扉の中に収納。

5月7,8日
顔の発疹,筋肉痛。働き過ぎがたたったかも分からない。

5月8日
脳神経外科の受診。
MRIの結果。
微小脳梗塞が沢山あった。60歳を過ぎると起きやすい生理的なものなので心配は要らない,とのこと。(私はまだ40代なのですが・・・)※
娘の相次ぐ不調に気懸かり。

※ 後に膠原病友の会にて「ラクナ脳梗塞」というものであったらしい事を知った。

5月9日
ピアノを弾く前と後とでのCKの違いを比較するべく,2回の血液検査。
レストランではその旨告げて,少々うるさい曲を弾かせて頂いた(ショパンのスケルツォやバラード)。
HJ医師には「CKは低すぎるのも問題なんですよ,余り言うと気になさると思って今まで言いませんでしたが」とのこと。「握力も上がっているし心配ないです」とも。
待合室で手を握ったり開いたりして測ると良い結果になる(30kg以上)。しかし,眠りこけていた後では全く力が入らない。

帰宅後は珍しく横にならず(なったら眠るだけになるので),溜まったアイロンかけ20枚。
娘は不調ながら塾へ。

生徒を預けている友人より電話。

5月10日
珍しいこともあるもので,電話が続く日は続く。6人次々長電話。結局朝9:30から2時まで喋っていたことになる。
湿布を貼り,バンテリンを塗り,昼寝。
娘の帰宅で起きたら頭痛と眩暈。ロキソニンもメリスロンも効かず。

5月12日
高校のI先生より電話で,体育祭の練習中に娘の眩暈が酷くなり(まさか伝染した訳でもあるまい)タクシーで自宅まで送ってくださる,と仰る。
それならKR大学病院の近くにお住まいなので,そのタクシーで先生のお宅へ寄り,そのまま病院に連れて行こうと,その旨電話をかけなおした。
1万円札をくずしたりしながら待っていたところ,何と!娘の友人2人が同乗している!5人は不可能。先生が「私は歩いて行きますから」と級友2人を乗せたままになさる。とんでもない!何の為にKRに行くことにしたのか,と言えば先生のお宅が近いからであり・・・気の利かない生徒達である,娘も含め。私が元気であったなら,自転車で私が駅へ行って待っていることも出来たのに,それも出来ず,私の言葉や心配をよそに先生は「大丈夫ですから」とニコニコ仰り,どんどん駅へ歩かれてしまった。駅で生徒たちを下ろして病院へ向かったが・・
何でも,不調は友人の為に動き回った為らしい(よく分からなかったが)。

救急では第3内科の先生だった。眩暈ではなく腹痛を重要視された様だ。
薬で痛みを抑えて動き回る怖さで,土日をゆっくり休養し,治らなければ平日にまず耳鼻科から受診すべくアドヴァイスを頂いた。

5月14日
西永福の整骨院へ娘を連れて行く。この整骨院は漢方的な治療を含め,身体の内部から矯正してくださる為,我が家は風邪であろうと腹痛であろうと通うのが習慣となっている。

5月15日
娘を連れてKRの耳鼻科へ。聴力,平衡感覚の検査。正常範囲だったが,もう少し詳しく調べることになった。
その後,私は娘の肉離れの湿布を取りにY病院へ。(ひとつの病院で受診すれば楽だったのだが…)

5月16日
娘の検査,その後6階のレストランで勉強をして私を待っている,と言う。
私は3つの科のハシゴあり,待ち時間の度にレストランに戻っては娘とお茶を飲んだりピアノを弾かせて頂いたり。

この日はラッキーにも,私の「帯状疱疹」が見つかった!
第一内科で,朝からある脇腹の痛みを訴えたのだが「気の所為でしょう」と診察も無し。トイレに行って痛むところを見たら,何と!発疹が・・・!?
幸いその後に皮膚科の受診があり,先生はご覧になるなり,「あ,帯状疱疹ですねぇ。痛いでしょう?」と。
簡単な説明の冊子を頂いた。
帯状疱疹ウィルスは,子どもの頃に罹った水疱瘡のウィルスで,治った後にもウィルスが体の中に潜んでおり,何かのきっかけで抵抗力が落ちてきた時に発症するそうだ。きっかけには疲労、加齢、外傷、手術、精神的なストレスなどもあるそうだが,免疫が抑制される薬剤(膠原病でのステロイド剤を長期間使用や,免疫抑制剤)でも起きるそうだ。ウイルスが神経組織のとくに知覚神経を障害する為神経痛に似たピリピリとした痛みを起こし,処置が遅れると神経ブロックの注射をするなど,大ごとになる事もあるそうだ。発症した日に診て頂けたことは何と有難いこと!!
塗り薬と飲み薬は同時に使えないそうで,塗り薬を数日間塗って治らない場合は抗ウィルス剤の服用に切り替えるそうだ。
ステロイド等の所為もあろうが,今回は娘の病院にも付き添ったり心配したり,と,発症の条件が重なったかも知れない。

5月22日
娘の体育祭で,久々にグラウンドへ。
中高最後の体育祭を見ることが出来て心より感動。特にダンス!
そしてMRIの予約(娘)が入っている為に2:45には病院に着くべく早退。付き添い。

5月23日
母の誕生日だと言うのに,孫は下痢。娘である私は病院予約あり・・

5月26日
昨年の誕生日までに更新出来なかった運転免許証の更新の為,府中へ。漸く,この様なことも出来る様になった。

5月30日
朝9時半から4時まで病院だった。待ち時間にピアノを弾かせて頂ける事で,通院が本当に楽になった。前の様にずっと座って全身がこわばるが如く,立ち上がるとフラフラよろけそうになるほど,いや,実際立ち上がるのに時間を要するほど苦痛だった待ち時間が,楽しいひとときとなっている。

2000年2月,3月の記録 - 2000.03.31 Fri


【2月の記録】

2月1日
いくつかの科の受診。
東京は中学受験の日である所為か,どの科も閑古鳥。先生方と雑談。最後の予約は1時だったのに12時に全て終わった。
体調も良く,バスと電車を乗り継いで帰宅。本屋に立ち寄り,夕方は掃除も出来,夕飯の天ぷらも作れた。

2月2日
調子の良い翌日はふらつきが激しい。原因不明。
朝起きた時の手のこわばりも1ヶ月続いている。

所得補償保険は2つとも2月1日で契約破棄になるそうだ。1年間は補償が下りる。つまり7月まで。

2月3日~
記録のノートを写しているだけ(実際には2008年に。そろそろ,いや,とっくに,書いていてもうんざりするのだから,お読み下さる方がいらしたなら尚のこと,感謝の言葉も見つからぬ程有難いことだ。心からお礼を申し上げます。)

まだパソコンが無かったので,文字も凄い。上腕がだるくて文字を書くのは至難の業だったらしい。今ではあり得ないバロメータになっていたのだ。

ひとつの科は月に2回としても,おそらく小児科以外の全ての科にかかっているのだろうから,通院の回数たるや・・・却って体調を悪くしている気がする。
超音波では,待っている間にぐっすり眠り,1時間半待って呼ばれ,「随分具合が悪そうですね」と言われた。椅子でじっと座っているのは何よりも身体がこわばってしまう。夜の睡眠中は勝手に寝返りを打つので,まだ良い。

諸症状を「ステロイドの副作用」と捉える科が多い。
脳神経の先生の仰った「日による波」「一日の中での波」はその通りで,こういうものか,と諦めて過ごすしかないのだろう。
検査値も画像も全て正常。それでも自覚症状は酷いのだから,それだけは確かなのだから,何とか治らないものか??

家族全員が出掛けるとホッとする。家事も捗り,後は眠っている。
娘の帰宅時も常に眠っているので,どうやら「お母さんはいつも眠っている人」と思われている様だ。洗濯物や部屋の片付けは魔法使いが来た,とでも???

入院中のリハビリでご一緒したヴィオラのHさん(脳梗塞)と,病院エレベータでばったり会い「明日から水戸の合唱団を引き連れて旅行」とか。「夜中の20回にも及ぶトイレでヘトヘト」とも。でも行動力に励まされる。(この話をリハビリでしたところ,Hさんは入院中に病院を抜け出しては吉祥寺で呑み,病院に戻ろうと,建物の前で倒れていて救急に運ばれたことが何度あったか……との事)

この辺りから,生徒を預かって頂いている方々から「そろそろ・・・」との連絡を頂く。


【3月の記録】

大人の生徒さん方の指導再開の方法で,代表の方より連絡。
タッチのプリントをグループレッスンで受けたい,というのがひとつ,もうひとつは,希望者はテープレッスン。

夫の依頼で,何曲かをコントラバス用にアレンジ。

5日,確定申告の書類を仕上げた。6日に夫に提出して貰った。その間に1曲アレンジを終えた。
娘は自習室で勉強をして帰宅することが多い。夫が迎えに行く間に又1曲書けた。

7日,骨密度の検査。(結果は80歳並)
バスと電車を乗り継ぎ,吉祥寺で途中寄り道をするのが習慣となった。
その後ぐっすり眠り,息子が米を研いでくれてあった。

区から難病手当が3ヶ月毎に49500円下りている。ずっと頂けるらしい…まさに丁度Taxi代だ。

病院がせめて週1回になれば疲れも減り,余力も出る気がする。矛盾を感じつつも,検査は避けられないのだろう。

娘(まだ高2だ!)の駿台模試返却。可成り好き放題,テストも一夜漬け,しかしやる時にはやっているのだろう。順位表に載っていた。それと,娘の友人で中1でお母様が亡くなられ,北海道の親類の家に引き取られた,というHさんが,理III志望で堂々とした成績で載っていた。勿論娘のことも嬉しいが,それ以上に嬉しい出来事だった。

私のグループレッスンはドクターストップ。
理由は,これからステロイドを10mgに減量するので,しかも3月は紫外線が強くなり始める時期なので,余計なストレスは(余計??)避けるべし,ということだった。
この辺りの記録は,確かに文字も筆圧なく形もいびつ,筋力の無さを示している。記録も内容に記憶なく,記録そのものにも「書いておかないと前日の事すら何も思い出せない」とある。完全な認知症ではないか!!

不調の原因を列挙しては解決策を自分で考えて書いてある。(省略)

不思議なのは,気功を受けると帰りが歩けなくなってしまう事だ。


2000年の始まり - 2000.01.31 Mon




1月1日
ゆっくり起きた。
新しい年。
夜は義父母,義兄一家と共ににぎやかに。
馬鹿を言っては笑っているひととき,具合は悪くならなかった。

母が酷い風邪をひいた,と,例年の正月のお祝いは中止になった。

1月2日~
特に変わったこともなく相変わらず。

1月5日
保険請求を仕上げて娘に郵便局まで行って貰った。これで全部送付,一段落。あとは入金を待つのみ。

1月6日
皮膚科受診。
HJ先生が,教授が来てくださるから待つ様に,とのこと。
その間の話。アルドラーゼを初めてこの間測ったら,普通1.5位なのが3.4だか3.6だか。
CD4とCD8の比率だそうだ。リンパ球のT細胞とB細胞云々の説明を受けた。
イムランは,HJ先生は,又入院することになるのではないか?と心配していらしたのだが,教授は,私が,イムランを飲み始めてから今の頭の症状が出ている,とこだわっている心の中を優先して下さったらしい。1週間止めてみて値を測ってから判断することになった。

8月の一番酷い体表面やCPKやリンパ腺の痛みが正常化した時は,プレドニンしか使っていなかった訳だし,A先生はプレドニンを30mgにしましょう,と仰った位で,どうしてイムランを使うことになったのだったか……記憶の彼方から引っ張ってみるに,私自身が喉の飲み込みの悪さを訴えたからの様な気がする。今になって思うと,あれは喉に原因があったのではなく,喉頭と咽頭の筋肉の釣り合いだったのではないか?耳鼻科で確かに唾液が残っている映像も見たけれど。寧ろステロイドミオパチー??
顔の浮腫やCPKの様に7~10日で効果の出るものもあるだろうが,身体の紅斑の様に何ヶ月も経ってから改善され始めるものもあると思う。

化学物質の摂取は少ないに越したことはない,とも思う。

ここの教授は感染症がご専門のひとつらしい。ハンセン氏病なども。
私の皮膚筋炎の原因もヴィールスと捉えられておられる様だ。確かに1997年の酷い蕁麻疹は風邪・発熱などを押して九州へ演奏に出掛けたことも関連あろうが…。それよりも長年の心身のストレスでは?

1月7日~
相変わらずで,よい日悪い日,波のある日々。

1月11日
膠原病内科と脳神経内科。
緊張型頭痛というのだそうで,脳ではなく,頭蓋骨の外や首などの筋肉がの凝りから来る,と言われたが…確かに頭蓋骨の外には脂肪が溜まり,ブヨブヨになってしまっている。凝っている,というよりぐにゃぐにゃになっている,といった自覚症状だが…。
プロにその様に言われても,中枢神経が薬で遣られている気がどうしてもする。

1月12日
イムランを止めて1週間。
息子がPHSで安売りを知らせてくれながら買い物をして来てくれた。
このPHSは昨年秋に夫と娘が話し合って私に買い与えてくれてあったもの。使い方を考えるだけで頭が痺れ,放置してあった。娘がボタンを押せば「かけたい相手」に繋がる様に全部記録してくれたが,それですら面倒で殆ど使っていない。

1月13日
何とか起きて娘の朝食を作って送り出し,ゴミを出し・・・
テレビ体操をすると調子が良い気がして実行。

病院ではコレステロール以外の値は正常。コレステロールは400近い時もある。

娘は,谷川俊太郎氏のご自宅にインタビュー(図書館便りの為だったか??)。

1月14日~
相変わらず。
脳の許容量が凄まじく減っている気がする。それ以上を(健康時の習慣で)使うと具合が悪い様な気がしている。自分の中での思考にせよ,かかって来た電話のやり取りにせよ,何かを頼まれて探しただけでも,又,一見元気に見えるらしく,普通に立ち話を長くする結果となったり,等々。

食料庫の中でゴキブリの幼虫が繁殖した。成虫になる前に!!と半日かけて除去し,賞味期限1998年以前のものを捨て,アルコールで拭き,収納し直した。

眠ってばかりの日もあれば,何か出来る日もある。余りのしんどさで,遠い病棟のリハビリを延期して貰って帰宅するなど。

年賀状を出せなかったので,寒中見舞いを娘に打って貰い,少しずつ宛名を書くなど,1月も過ぎた。



1999年末 - 1999.12.31 Fri




12月24日
夕方慌てて最低限のクリスマスカードを書いて投函。
夜は息子も早めに帰宅し,家族で讃美歌を歌い,息子がお祈りをしてくれた。
子供達をヨーロッパの本物に触れさせたい。
ずっと胃痛が続いている。3種類も胃薬を飲んでいるというのに。

12月26日
一日ずっと身体の震えで起きられず。
その傍でずっとテレビを見てアハハアハハと笑って,何も声もかけてくれない娘。
夕飯まで何も食べていない。

12月27日
気功。
その後お餅を食べた。何か食べると頭が震えて痺れてくる。胃に血液が大移動??

12月28日
毎日変な夢ばかりに悩まされる。
寝覚めは快適だったのが,食事をすると頭が痺れて縛られた如くなる。以前は眠くなったものだが。どういうメカニズムなのか??

ホームドクターが散歩のついで,と立ち寄ってくださった。
ピアノをちょっとお聞かせしたら「それだけ弾けたら充分,大丈夫,大丈夫!」とニコニコしていらした。お顔を見るだけで安心する先生。
午後から皮膚科受診。

帰宅後は溜まった新聞を読んで片付け。

12月29日
明け方風邪薬。
頭は痺れたまま。午前中から又眠った。
午後,皆の居ない間にシーツなどを整理し,不要物は処分。引き出しの中の整理。
いつの間にか眠っていた。夫が帰宅して夕飯の支度をしに上がって来て目覚めた。
何かしようとすると頭が痺れてフラフラする。

12月30日
忘れた。

12月31日
夫の脚の状態を聞くだけでもう頭が痺れてしまう。
娘にベランダの掃除をさせた。
2000年問題に備えてペットボトルに水を詰めたり,バスタブに水を張ったり。
病院の先生方にのみ(6枚)年賀状を出した。切り紙を貼って。

近所のSYさんが見事なお節料理を届けてくださった。
いつも感謝!!

夜は紅白歌合戦の間ずっと眠り,年明けにイチゴを食べ,「一年の計は元旦にあり」とばかりピアノを一瞬弾いた。

更に悪い体調 - 1999.12.23 Thu


12月8日
毎日書くことも同じながら,潰されそうな頭でひたすら片付け。(普通の判断基準では信じられない散乱とゴミとカビ)

12月9日
朝は体調が良かった。今日こそ,と1998年の収録がCD用に編集されたものを聴き始めたら又,頭の上に2-30kgのものを乗せている様な状態になってしまった。この症状はいつ治るのだろう?先日友人に「セカンドオピニオンを求めては?」と言われたが,その気力もない。

12月10日
毎日ふらつきとの闘い。

夕方珍しく,以前ピアノに通っていたK君から電話。従妹のTちゃん(彼女も元生徒)が医者の助手を始めたお知らせと,その医者から膠原病のことを詳しく聴いている,とのこと。又,コウケントーはどうしているか,あれは勝手に使わない方がよい,とのアドヴァイス。乳癌の手術直後は使っていたが,その後は止めていることを伝えた。
それと神経の話をこちらから。(メモには書いていないが,その前にも彼に尋ねた気がする)聴けば聴くほどに彼が罹った症状と酷似。彼は「精神神経科」に通ったが,その大学病院はいつも混んで5分くらいしか話を聞いてくれないので個人的にカウンセリングを受けた,とのこと。「パニック発作」という単語は以前彼から聞いて初めて知った言葉だ。
彼の場合は心理的なものが原因だったというが,私の場合は病気そのものの症状のこともあるし(膠原病でもSLEやSjSなどでは出るそうだ。DMではそういうことはない,と言われつつも,海底の膠原病プレートは繋がっているだろう…),薬の副作用もあるし,一体どうなっているのだろう?K君も脚や身体のふらつきはあったそうで,それを他人に説明しなくてはならない折,分かって貰う表現に大変困った,と言う。
まさに同じだ!!
そのことからも分かる様に,私の今のふらつきは皮膚筋炎ではなく神経だ!ただ,腕などは取れてしまった筋肉の所為で文字に影響はあるかも知れないが,それとて3割くらいでは??
電話の後よく眠った。
夜は酷い状態になった。

12月11日
押しつぶされそうな頭で過ごしている。
久々にリハビリを一通りやって,その後散歩。

12月12日
人の病気を一体何だと思っているのか!?というような周囲。医師を含め。専門外は素知らぬ顔??薬の副作用であったとしても??家族然り,おそらく私は鬱陶しい存在なのだろう。
病気そのものの所為?副作用?それとも新しい症状?この一週間特に日に日に酷い。
気功が却って良くなかったか?HT氏が「植物人間すれすれまでやった」と言っていたのはどういう意味だったのだろう?

家族に「何が食べたい?」と訊かれるだけで震える毎日。

今日は最悪だった。
「お誕生日おめでとう」と言われ,こんな状態で生き続けていることの何がめでたい!?!?といよいよ爆発した!!※
生徒数名が入れ替わりにお見舞い(お祝いだったか?)に来てくれたそうだが,会うどころではなかった。
他県から来てくれた人も居たというのに,起き上がるどころか目すら開かない。
大変申し訳なかったのだが,夫が対応してくれた。

※ この爆発を境に,娘自身が壊れたそうだ。後にそのことをインターネットに書きまくっているのを読んだ時のショックには言葉も出なかった。耐えた。全て私の責任,と。
進学校に通っていて,その後保護者会に出席出来る状態になった時,娘の友人たちの親御さん方より「○○ちゃん,可哀想なのよ」という言葉を聞いた。家族に病人が出た時にその病人は家族への加害者なのだ,と捉えていることに愕然とした。この様な若者たちが医者を目指している!?医学部に憧れるだけであることを願う。親御さん然り。医大進学率が女子校としてトップであるこの学校そのものの教育方針は決してそうではない筈なのに。箱と中味は違うのだろう。

12月13日
膠原病A先生の診察。
精神科のK教授を紹介して貰えた。
いつもA先生の受診後はホッとするのだが,この日の震えは取れなかった。

廃人になってしまいそうな数日。いや,既に廃人かも分からない。

12月14日
D君がお母様お手作りのお赤飯を届けてくださった。退院祝い。美味しかった。
レシピをお願いしたら早速お返事くださった。

他のお帰り頂いてしまった I さん,Sさんにもお礼のファクスを送った。

12月16日
精神科KY教授受診。
ごしゃごしゃの頭で喋る私の話を全部聴いてくださった。(A先生も脳神経のKH先生も,本当に有難いことだ)

つまりは頭の状態を軽くしたい,ということに行き着くだけなのだが,K教授によればリーゼは甚だ軽い薬であり,同じマイナートランキライザーで,もう少し強い「ソラナックス」という薬に変更し,発作時(!?やっぱり!?)には「デパス(0.5mg)」を1日1回を限度として頓服することになった。毎週火曜にこれから受診出来ることに話がついていた。
「こんな大きな病気を二つもやって,勿論副作用だ,病気の症状だ,ということもあるけれど,二つも大病をして4ヶ月も病院していれば(閉じこめられていれば)こういう状態になって当たり前です」とも。
「必ず良くなっていきます」「大いに爆発してください(デパスを飲めば5分で落ち着いてきますから)」
等々たっぷり1時間,じっくり耳を傾けて,アドヴァイスくださった。有難かった。
この日は受診により,自分の頭をこれ以上セーブしなくて良いのだ,考えたいことは考え,ぶつけたいことはぶつけてよいのだ,と分かり,家族に関しての不満や,子育ての後悔等々,ふにゃふにゃの文字で6ページも書き連ねてある。※

※ 2年後くらいだったか,これらの症状もすっかり治まり,漸く「膠原病友の会」の会合に出席出来た(酷い時こそ出席すべきが,理不尽なものだ…)。その日に講演をなさった先生と質疑応答の機会があり,これらのずっと腑に落ちなかった話をしたところ,「そういう時は入院中に可成り強い抗鬱剤が処方される筈です」「ステロイド精神症でしたね(交感神経緊張状態で作られる)」と仰った。やはり入院中からその様な状態だったのだ。いくら治ってしまっているとは言え,入院中からの半年~1年,余計な苦しさに,訳も分からぬままじっと,ひたすら耐えて耐え抜いていた事が口惜しく残念に思えた。同時に友の会の存在を有難く思った。
ただ,更にもっと後になり,「抗鬱剤」の恐ろしさの情報も入り,合わないタイプを使用して堂々巡りになった人の多さも知った。マイナートランキライザーのみの処方,改めて有難く思い返した。

12月17日~
調子の悪い日は「ソラナックス」も効かない。デパスで辛うじて自制心が働く。もし服用しなければ大きな「ブルータス像」(石膏)を机から床に投げ落としていたかもしれない,と思う日すらあった。
21日は諸科のハシゴ。
皮膚科では,最初に「オーバーラップ症候群」と言われていたのが,どうして「皮膚筋炎」になったのか訊いたところ,SLEは20歳くらいからの若い人の罹る病気とのこと。だから頭の症状はSLEの症状ではないとの説明。又「デパス」は使わない方がよい,との意見。(これを服用して辛うじて病院にも来られたのですけれど・・・・・と言いたかったが言う元気も出なかった)
脳神経のK助教授に精神科受診内容報告。「A先生が行かせたの?大袈裟だなぁ」と。いきさつを全部説明したところ,「薬でしっかり抑えましょう。波は必ずあるけれど,必ず治りますから」と断言くださった。
精神科でも「マイナートランキライザーでしっかり抑えましょう,必ず治りますよ」と。しかも最後だったので「何でも話してください」と全部耳を傾けてくださった。仕事内容や現実もざっくばらん話せた。この2時の予約は4時になり,薬局は滑り込みセーフとなった。
22日の眼科では「まだステロイド15mgも飲んでるの?」と言われたが,コンタクトレンズの許可が出た。使う機会は皆無ながら。その後風邪のことで皮膚科受診。入院中は文句ばかり言っていたN先生を大いに頼ってしまった。

悪化するばかりの体調 - 1999.12.07 Tue



退院までの治療その他,病院での様子を書いたものの,実は殆どが記憶にない。
幸か不幸かノートに記してあったので,書き写しているうちに7割は思い出して来たのだが,中にはどうしても思い出せないこともあった。ところが不思議なもので書き連ねているうちに,それらも徐々に「あぁ,そんなこともあった様だ」と思い出してくる。

だから,記入しそびれたことは一切記憶にない。
例えば爪周囲炎がいつ治ったか,ということも。入院中は手の10本指とも周囲の皮膚が爪を覆い,しかもジクジクとして爪は3分の1位しか見えなくなっていた。毎日薬を塗って絆創膏をしていた事は覚えているが,いつ治ったのだったろう??

退院して数ヶ月後に「膠原病友の会」に入会した。講演会などに参加出来る様になったのは可成り先だったが,送られてくる会報は随分勉強になった。それまで謎に包まれていたかの如き症状が,「これだったのだ!!」と確信が持てる様にもなり,又,他のもっと重症の方々がどの様にして乗り切っておられるのかを知ることも出来た。


1999年11月12日
入院前は一体どんな生活をしていたのだろう?と思う。

免疫力をステロイドと免疫抑制剤で抑え,日頃なら市販の塗り薬で治ってしまう様な傷が何ヶ月も面疔として続いたり,抗生物質入りの軟膏を塗れば数日で治る程度の瘭疽が何ヶ月も治らずに爪を剥がしたり(それも麻酔なしで),退院したものの,「ドロドロ」としか表現しようのない家,そして又仕事や学校から色々な菌を運んで帰宅する家族を思うと,次は何が起きるのだろう?と思ってしまう。
それは薬で治るのでさほど深刻ではないにしても,徐々に散乱を整理し,掃除と洗濯をせねばならない。
もっと深刻なのは,相変わらずの頭重感とフラフラ感。どうしたら治るのだろう?

各部屋を整理して掃除をしようとするが,しかも「一日ひとつだけ」と構えているのだが,その「ひとつ」が結局3つ分にも4つ分にもなってしまう。体調には10個分の労働だ。

保険の書類も,1枚書くのが普段の10枚分の負担。

11月13日
連日冷凍庫の霜取り。扉から霜がはみ出さんばかり。
階段に息子がコート掛けを付けてくれた。これで皆,コートを脱いでから部屋に入れる。

11月14日
コートの虫干し。
夜,夫と息子が音楽室の大移動をし,私の寝室を作ってくれた。少しずつ,と思っていたのが今日しかなく,真夜中の2時までかかってやってくれた。これで昼夜を問わず自由に寝られるし,紫外線の心配もない。

11月15日
14時リハビリ外来の診察。今後の予定を決めた。木曜の皮膚科の後にOTを入れる,等。
夜中に起こして貰い,気になっていた退院報告の手紙の下書き。ぐしゃぐしゃの文字と文脈の下書きを,娘が夜中の2時~3時,パソコンで打ってくれた。折角の勉強時間を妨げてしまった。
何枚かコピーをし,これを又種類別に「P.S.」を加筆して,それらをコピーして送ればよい。

11月16日
P.S.を加えてコピーをし,封筒に入れ,20通のみ宛名を書き,息子に投函してきて貰った。
これだけで可成りの上腕の負荷。

11月17日
弁当作り。
漸く掃除機の中を空けた。そしてリビングの掃除。不要なマットレスの処分。座布団カバーの洗濯。カビの生えた靴の洗濯。
手紙は震えた文字しか書けないが,更に又宛名を書いた。
風呂に入り,換気扇を掃除し,夕方寝た。

11月18日
外来。大した検査もせず血液と尿のみ。
帰りに「ひゃくえもん」とOXストア。

11月19日
夫は九州へ演奏旅行。

段々書くのも億劫で,この辺りは毎日掃除,片付けばかり。これも,清潔を自分の為に守らざるを得ないからの他なにものでもない。
ゴミ出しも頑張る。しかし分別ごみは息子を強引に起こして出させた。
23日は起きてくれず,娘と計9個の不燃ごみを出した。

相変わらず震えは止まらず,頭の中の音は日に日に増える。左頬のピクピクが数日激しい。息苦しい日が多い。

いつだったか忘れたが,私専用のPHSを夫が娘と出向いて用意してくれた。寝たまま話せるし軽いので。最低限必要な電話番号を娘が入れてくれた。しかし何度訊いても使い方が分からず,かかったとしても喋る元気は全く無い。ベッドの傍に置いてあるだけのシロモノ。

11月24日
息苦しさと全身の震えは,余程救急車を呼ぼうかと思ったほどだった。
病院,薬局,ファミリーマートを往復したからか??帰宅はタクシー。

11月25日
病院内を歩くのも苦痛。
待っている間も目をつぶってもたれているしかない。
検査室,レントゲン,リハビリ室,車椅子に乗りたいほどだったが,脚の悪い母に押して貰う訳にもいかない。
リハビリはマッサージをして貰うだけにした。
昼食を食べて少し元気が出て薬局へ行けた。ところが,皮膚科の手違いで薬が半分しか出ていなかった。

11月26日
入院中より「どんな負荷をかけたらどうなったか」「どんな生活をした翌日はどんなか」を記録し,自分でコントロール出来る様にすべく言われたので書いているが,日に日に酷い。特に病院に行った翌日は最悪だ。本末転倒・・・

11月27日
朝は釘打ち(娘の部屋を整理)。夕方より気功(第一ホテルでの)。帰りは歩行困難。
弁当屋の数段の階段も上れず。
ずっと記録していないが,気功は入院中も定期的に受けていた。

11月28日
空気清浄機の中がカビで真っ黒け!部屋から部屋の通路も綿ごみだらけ。隅はカビまで。
不要物を捨てながら掃除。

この2週間,再入院になるのでは?と思うほど家事をした。それも我が身を細菌から守る為でもあるのが・・
再入院になったとて,家事をする為の一時的退院と捉えても悔いはないほど片付いた。安心して歩けるスペースも出来た。その前は物をまたぐ度に転倒しそうだったのだから。この症状は絶対皮膚筋炎ではない!中枢神経が遣られている気がする。

11月29日
折角朝の体調は良かったのに,簡易保険の受領書が無い,と私が探す羽目になること数時間。※
頭がすっかりワナワナフラフラしてしまって治らない。
退院以来のリハビリ(自宅での課題)。
※ 説明が書いていないので,何がなんだか分からずに書き写しているだけ。又,ノートの文字もぐしゃぐしゃだ。筆圧の無さは「ボールサイン」という,インクがポタポタ落ちそうに出るペンで補っていた。

11月30日
朝は娘が目が回る,と騒いでいた。
自宅でリハビリ。結局筋力が足りない為に神経との連携が悪いのでは?との解釈。

12月1日
午前中久々に手紙のコピーにP.S.コメント書いて更にコピーをして封に入れた。
リハビリ。

夫のぎっくり腰も辛かろうが,私がいくら「車は最低限に」「楽器なしの折は電車」「近所は徒歩か自転車」と言い続けても無視。おそらく80歳並みの腰。こちらは車にも乗らず荷物があろうとも時間が無かろうとも自転車と徒歩で,この病気。計算が合わないなぁ…

明日の受診で念を押すこと。
* 火曜にA先生とK先生を受診したい。
* 薬の確認。
* リーゼの効果は全く無く,フラフラと歩きにくいことこの上なし,日に日に不調が募るのを何とかして欲しい。(病気の悪化なのか,それとも神経系なのか,薬の副作用なのか,何よりも「治るのかどうか!?」)
* 入院保険の書類が出来ているかどうか
* 所得補償の書類をお願いする

12月2日
S教授の診察。身体からステロイドが出なくなっているのを測るように言われたが,ふらつきを中枢神経と結びつけて考えてはおられない。退院後の主治医HJ先生が「たまには教授の顔を見ると安心するでしょ?」と言われたが,私が思っていることに対してお答え頂けない時は…

12月3日
病院翌日は使いものにならず

12月4日
朝起きた時はまぁまぁの体調が,一旦息子のことで腹を立てるや・・・

12月5日
小学校の前のポストまで歩いてみた。

12月6日
朝,コピー機を運んだ!何しろ通路を塞いでいるので。
午後気功(いつものYHさんが都合悪く,息子さんのHTさん)

12月7日
気功の効きめは皆無。

無線タクシーで病院。K先生,HJ先生,その後リハビリ。
歩くのが辛かった。胃痛も激しく。
薬局,コンビニ,そして又タクシーで帰宅(乗り場が遠のいた)
ずっとコレステロールが400近い。CKは上下こそすれども安定。
病院から帰宅後は毎度ながら眠るのみ。




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プロフィール

奥 千絵子

Author:奥 千絵子
★上の画像は2001年にCDにして約3枚分を収録したものを,2006年に2枚組としてリリースしたCD「樂の音に寄せて」です.『レコード芸術』2007年1月号で「特選盤」として取り上げられました.戸倉新樹教授によるライナーノートは医学生にもお薦めです.その他のCDや著書はWebsite「本館」からお入りください.このブログも「本館」のDIARYです.
★このブログの"Grüß Gott !" (文字化けの場合はGruess Gott!)は墺・南独の時間を問わない挨拶です.Website「本館」のDIARYです.出版CDや著書の詳細は「本館」のメニューからお入りください.
Website「別館」もあります. 著書「ピアノと向きあう」の説明を補うサイトです.よく頂く質問に説明を記載しています.
★上記著書については今井顕 氏によるKINOKUNIYA書評空間WEBLOG を是非ご一読くださいませ.
Auch auf Deutsch schrieb ich…
★【膠原病の記録】余りに医療のカテゴリーがが増えてしまったので目下整理中です.大変複雑な病気の経験が同じ病の方々への参考となりましたら幸いです.
「乳癌と膠原病(皮膚筋炎・多発性筋炎)」「膠原病(退院後)」 ,その他の医療の話(自分以外も含めて)は「医療・病院関係」,に取り敢えず分けました.
平成12.12.12.病院での復帰リサイタルは演奏動画入り記録です。
★恩師のことは55年間を遡り少しずつ記載するつもりです。目下のところはこれだけです.
★コメントも大歓迎です。SPAM防止上、確認後に公開しております。ご理解をお願い致します.
★このブログや大元のサイトへの感想やお問い合わせはservus2008@gmail.com宛に@を半角に直して送信願います.
【BGM】
Robert Stolzメドレー
演奏:東京カンマーコレーゲン 
室内楽アレンジ:奥 千絵子
ショパン:華麗なる大円舞曲Op.18
演奏:奥千絵子 ショパンのワルツは上の画像の2枚組CD「樂の音に寄せて」に入っております.
★Copyrights©1997-2020 Chieko Oku All rights reserved.
制作・著作:奥千絵子
★遙か下方に設置のカウンターは、サイトを複数回お訪ね下さいましても1日を1回とカウントし、又、私を入れない設定になっております。



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